ケルヴランのキャリア
日本ではケルヴランは元素転換説を提唱した人物として知られているが、もともとケルヴランがどのような仕事をしていたのかはあまり知られていない。
これについては『生物学的元素転換』の第9章「錬金術師の道程」に少し記しているが、その全貌が解明されたわけではない。
最近になってケルヴランが元素転換説とは関係のない著作を残していたことが判明した。それは『私たちの国土』というものである。
これは1941年にパリ大学の出版部から公刊されたもので、フランス各地の鉱物資源などについてまとめられた資料である。
ケルヴランは1930年代にサヴォワ県シャンベリーで技術教育視学を務めており、その当時も地元の雑誌『レビュー・ド・サヴォワ』に同様の記事を書いている。この著作はおそらくそれらの情報をまとめたもののようである。
技術教育視学という役職は聞き慣れないものだが、日本の文科省にも視学官という役職があるらしい。時代や国は異なるが、おそらくそれに近い業務をしていたものと推測される。
ケルヴランが元素転換説を公表したのは1960年であり、そのキャリアをリタイアした後だと思われる。日本では還暦に近い年齢であり、セカンドキャリアとして選んだのがフリタージュ研究活動ということになるのだろう。
そこからケルヴランは9冊の著作と30本以上の論文を公表していることは周知の事実である。その内容はともかく、バイタリティー溢れる後半生の活動は見習いたいものである。
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