空白の13年間
G・シューベルは1952年に45ページに及ぶ原子核パリンジェネシスに関する論文を公表しているが、その後1965年に開催されたユネスコの国際会議に至るまで、このテーマに関する論文を公表していない。この空白の13年間にいったい何があったのだろうか?
ユネスコの論文の冒頭にはこれまでの経緯として若干の記述はあるが、その具体的な理由は明示されていない。ともあれケルヴランやバランジェに先がけて提起された彼の革新的な見解に対して、地質学界の反応が芳しいものでなかったことだけは確実なようである。
『フリタージュの真実』の読者にはわかると思うが、1960年にケルヴランが最初の論文を公表したのは地質学者のJ・ロンバールの協力があったからである。そして1962年に出版された『生体による元素転換』にはロンバールとシューベルの論文が関連文献としてリストアップされている。これはおそらくロンバールの情報提供によるものだろう。
また1963年に出版された『自然の中の元素転換』にはロンバールが序文を寄稿しており、シューベルの論文も部分的に引用されている。こうしたケルヴランの動向はロンバールを通じてG・シューベルに伝えられ、それが13年の時を経て再び原子核パリンジェネシスを問いかける動機になったと考えても不自然ではない。
『地質学における微量エネルギー元素転換』には、ケルヴランとG・シューベルは1971年まで直接の面識はなかったと記述されている。しかしJ・ロンバールとG・シューベルは1966年にパリで開催された世界地質図委員会に共にコーディネーターとして出席しているので、おそらくそこで後の共同実験に至る情報交換があったものと推測される。
いずれにせよJ・ロンバールはケルヴランとG・シューベルの相互作用を促進する触媒の役割を果たしたといえるだろう。
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