春の修羅
宮沢賢治の「春の修羅」は早春の東北を偲ばせる詩歌だが、寒々しい昨今の状況に不思議と符合するものが感じられる。
「まことの言葉はここになく/ 修羅の涙は土に降る」
ちょうど一年前に令和という時代が始まったときに、新しい天皇の下に素晴らしい時代が始まると宣った輩が一人や二人ではなかった。一年後にこんな未来が待っていることを予見することもできなかった体たらくである。
先のことは誰にもわからないが、人は未来に希望を抱くものである。ミレニアムのときも平成になったときもそうだったかもしれない。しかし、まことなき言葉で人心を籠絡するのはいかがなものか。
コロナウイルスも少し下火になる兆しが見えたところだが、人間というものはウイルスよりも情報に感染しやすく、また周囲の状況に流されやすいものであることが改めて認識されただろう。むしろウイルスよりもそちらの弊害のほうが大きかったのではないだろうか。
たとえば生物学的元素転換について批判的なコメントをネットに上げている人もそのような類である。「生物学的元素転換」を読んでいる人にはわかると思うが、そのような人ほどフリタージュ・ブックスを一冊も読んでいないケースがほとんどである。
ある研究に対して批判や疑問を呈することは科学の世界では当然の権利である。しかし、著作や論文の一つにも目を通さず、ネットで寄せ集めた情報だけで何かを否定しようとする人間の言葉に耳を傾けるのは、同じレベルの人間だけである。
もしその研究に関心があるのなら、私のように世界中から一次資料や論文を収集して翻訳し、また研究者に直接コンタクトを取るのが当然だと思うが、そのような綿密な調査と地道な努力を怠っているにも関わらず、他人を批判するしか能のない人間は、おそらく子供の頃から弱い者いじめしかしてこなかったのだろう。
これからの時代はこのような二極化が進んでいくことになるのかもしれない。すなわち様々な情報に振り回されて生きる人間と、そこに真偽を悟る人間の乖離である。
濁った水が浮かぶものと沈むものに分かれて少しずつ透明になってゆく。それは地球が本来の自分を取り戻すプロセスでもあるが、その過程において、この星に生きる者にはさらなる教訓が与えられることになるだろう。
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