E・シュレディンガーは量子力学を確立した物理学者であり、量子論の本質を示すシュレディンガー方程式や「シュレディンガーの猫」という思考実験でつとに有名である。しかしそのシュレディンガーが生体組織、特に遺伝子による形質発現に強い関心を抱いていたことはあまり知られていない。
1943年にシュレディンガーが行なった一連の講演をまとめた著作が『生命は何か』という本だが、この小著に目を通すと、彼がいかにこのテーマに真摯に向き合っていたのかがよくわかる。
すでにこの時代には遺伝子という概念は確立されていたが、J・ワトソンとF・クリックがDNAの二重螺旋モデルを提唱するのは1953年のことであり、シュレディンガーは遺伝子の実体構造を把握してはいなかった。しかしX線の照射によって突然変異が生じることは知られていたので、おそらく彼はそこに何らかの量子力学的プロセスが存在するものと考えたようである。
機械的な思考フォーマットをもつ物理学者なら生体組織のプロセスも全て物理化学的反応として説明できると考え、実際にそれを試みようとするだろう。これは生命を一種のメカニズムとして捉える機械論的還元主義と呼ばれるものだが、シュレディンガーのアプローチはきわめて慎重であり、次のような彼の言葉には生命活動をになう存在に対する敬意が感じられる。
「生きているものは今日までに確立された物理学の諸法則を免れることはできないが、今までに知られていない<別の法則>も含んでいるらしい。」
そしてシュレディンガーは熱力学の概念に基づいて「生命は負のエントロピーを食べている」という命題を残しているが、これは後に大きな議論を招くことになった。生体組織を一種の熱力学的システムと捉えるこの言葉は物理的には簡明ではあるが、生物学的リテラシーとの整合性はとれていない。
たとえば生物の代謝作用にも、アミノ酸から蛋白質を合成する同化反応と複雑な分子からエネルギーを取り出す異化反応がある。同化反応と異化反応ではエネルギーとエントロピーのベクトルは逆方向であり、これらの複雑な組み合わせによって代謝作用のシーケンスは構成されている。
おそらくシュレディンガーは生命のもつ驚くべき自己組織化・増殖能力を表現したかったのだろうが、それを物理学の鏡に映すと異なるイメージが結像するようである。たとえば元素転換反応をこのような文脈で捉えようとするなら、それも一種のマイナスエントロピーの現象といえるのかもしれない。
エネルギーもエントロピーもある意味では人為的な概念であり、その適用による解釈が全てではないだろう。皮肉なことだが、最近のスピリチュアル系の団体では波動とかエネルギーという言葉が信者を篭絡するために都合よく使われている。悟っていない人間ほど悟った人間の言葉を引用するものだが、シュレディンガーの慧眼には言葉遊びとしか映らないかもしれない。
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