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2019/08/11

孤高の反乱

ガセロンの第3章「ピエール・バランジェとアカデミー」の冒頭部は次のような言葉で語り起こされている。

「私たちはここに、フランス科学アカデミーとフランス農学アカデミーに対してP・バランジェの研究論文を報告しようとした虚しい試みを提示しようと思う。というのもそれはこれらのアカデミーによって受理を拒否されたためだが、逆説的にその最終報告書の全体的な公表によって彼の実験の科学的価値が明白に示されているためである。」

まず注意しておくべきことは、ケルヴランはフランス農学アカデミーを舞台として論争を繰り広げたが、バランジェはそれ以前に科学アカデミーと農学アカデミーの双方に働きかけていたという点である。これは『フリタージュの真実』につながる大きな伏線になっている。

ガセロンの記述によると、バランジェは植物による元素転換の研究を1950年以降継続しており、1958年5月にフランス科学アカデミーに論文を提出したが、科学アカデミーのメンバーによる批判に基づいてその公表は拒絶されたという。これはケルヴランに関する公的記録を抹消した農学アカデミーと同じ構図である。この科学アカデミーの批判に対してバランジェは1959年1月に反論文書を送付している。そしてこの年の4月にバランジェの研究は『S&V』の記事として公表されている。このような文脈を考えると『S&V』の記事はフランス科学アカデミーに拒絶されたバランジェの反乱だったことが理解される。

当時バランジェはパリ理工科学校の有機化学研究所の所長を務めていた。レオン・ゲゲンによるとこの研究所はフランスでも由緒ある研究機関であり、その所長であるバランジェはフランスの科学界でも一目置かれる存在だったようである。アカデミー側としても彼の公表を無視することはできなかったらしく、1960年1月に農学アカデミーのL・スービエがバランジェに書簡を送り、研究内容の真偽を質したという。そしてそれを契機として1961年4月にスービエ・ガデ論文の元となる再現実験が行なわれたようである。

ところが話はそれで収まらなかった。バランジェと農学アカデミーとの亀裂はさらに深くなっていったと伝えられる。

 

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