真実は眠る
<Rical>から送られたJ・M・ガセロンのファイルを少しずつ解読している。それはケルヴランと同じ時代に元素転換の研究を行なっていたP・バランジェに関する資料である。
『フリタージュの真実』にはP・バランジェの研究を紹介した『S&V』の記事を収録しているが、フリタージュに関するバランジェの資料はこれが唯一といってよい。ケルヴランが9冊の著作と数多くの論文を公表しているのに対し、バランジェは有機化学に関する著書はあるものの、元素転換に関する論文はわずか一本だけである。
バランジェの研究実態については多くの謎が残されているが、その一端を照射する資料が生前のバランジェと交流のあったガセロンの著作である。その第3章のタイトルは「P・バランジェとアカデミー」となっているが、これによるとバランジェはフランス科学アカデミーに論文を提出したが、その公表を拒否され、また農学アカデミーでも二度にわたって同様の扱いを受けたらしい。
『フリタージュの真実』では、バランジェの実験を検証したとされるスービエ・ガデ論文がステファーヌ・エニンによって紹介されているが、ガセロンによるとL・スービエは1960年1月にバランジェに対して意見書を送付しており、セルダーニュ・ベッチによるカリウムの元素転換は実験的に確認できなかったと述べている。
するとバランジェはそれ以前(すなわちケルヴランが最初の論文を公表した1960年7月以前)に元素転換に関する実験を公表し、スービエはエニンが公表した論文の記述以前にバランジェの実験を検証していたことになる。
パリ理工科学校の有機化学研究所所長のバランジェがなぜ元素転換の研究を行なったのかは不明な点ではあるが、バランジェはガンやハンセン病の化学療法の研究も行なっていた。それに関連して植物の薬効成分にも関心があり、その含有量がなぜ特定の品種や地域によって変動するのかという疑問を抱いていた可能性がある。つまりアレロパシーでいうところの生理活性物質の生成要因が元素転換ではないかと考えていたのかもしれない。
いずれにしろ真実はまだ深い闇の中にあるが、ケルヴランとは異なるバランジェのアプローチが少しずつ明らかになってゆくに違いない。
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