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2011/11/25

MRETウォーターとNK細胞

MRETウォーターに関する研究書『活性水の応用生物物理学』には様々な興味深い研究例が公表されているが、その第6章の翻訳がほぼ完成しつつある。これはBALB/Cマウスを使用したMRETウォーターによる抗ガン作用を検証したものである。

この第6章では大別して三つの研究が行なわれている。一つはエールリッヒ腹水ガンを接種したマウスに様々な処理時間の活性水を与え、その腹水量や腫瘍細胞の個数、マウスの生存期間等の変動を比較する実験、もう一つはサルコーマ37を接種したマウスによる同じ形式の実験である。

一口にガンといっても様々なタイプがある。エールリッヒ腹水ガンは上皮性腫瘍に属しているが、サルコーマ37は結合組織起源である。そしてこれらの異なる腫瘍をもつマウスに15分・30分・45分・60分という異なる処理時間の活性水を同じ期間投与する実験が行なわれた。

そしてもう一つ注目すべき点は、この実験には「古い活性水」も使用されたという点である。「古い活性水」とは実験開始以前に大量の水を30分間活性化させ、気温4℃で45日間保存されていたものである。

以前に「MRETウォーターの消費期限」について記したことがあるが、それは私の個人的見解を述べたものではない。このように長期間保管されていた「古い活性水」による実験結果を踏まえたものである。これら5種類の活性水による影響はきわめて特徴的な形で表われている。

そして三番目の研究は少し専門的なものだが、MRETウォーターによるNK細胞の細胞傷害性作用に対する影響が調査されている。NK細胞はよく知られているように免疫系における重要な細胞であり、サイトカインを生成して腫瘍の成長を抑制する機能をもっている。

細胞傷害性作用というと難解な印象だが、要するに免疫細胞の活性指数ととらえることができるだろう。これはエールリッヒ腹水ガンを接種したマウスの脾臓から採取された単核リンパ球を分析したものだが、MRETウォーターがNK細胞を活性化した実験的証拠を提示するデータである。

この資料は約27ページなので今のところ小冊子等にするつもりはない。ただし、完成後にはMRETアクティベーター購入者のうち希望される方にのみ、特殊資料として提供する予定である。ちなみにこの資料は専門的な内容なので小冊子『MRETウォーター』の購入者に提供することは今のところ考えていない。

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2011/11/16

来たるべき覚醒のために

今年は水による災害の多い年だった。地震による津波、台風による浸水、また海外ではいまだに洪水の被害にさらされている地域もある。

私の地元でも台風によって山あいの土地が崩れて小学校の教室に土砂が流れこんだ。そのため一部の学年はいまも中学校の校舎で授業を受けている。

実はその崩れた土地には地域の墓地があり、数年前に妹とその子供たちを残して逝った義弟の墓もそこにあった。

「墓まで流されるとはな・・。」その崩落した惨状を目にして思わず口をついて出た言葉だった。現在も掘り起こしの作業が行なわれているが、たとえ骨壺が出てきてもどの墓のものかはおそらくわからないだろう。

来年はアセンションという地球規模の変動が起こるとされているが、こうした一連の天変地異はそれに向けての一種の浄化プロセスなのかもしれない。それはちょうど濁った水が浮かぶものと沈むものに分かれて少しずつ透明になり、自分自身を取り戻していくようなものなのだろう。

もしかするとそれは私たち個人の意識の中でも生じているのかもしれない。今年はMRETアクティベーターの注文があいついだが、注文された方の動機はそれぞれあるだろう。しかし無意識的なレベルでは、水による浄化プロセスが重要であることを感じとっているものと思われる。

今はわからないかもしれないが、それはやがてあなたの中で現象化するだろう。自分自身の中で何が浮かび、何が沈んでいくのか、それを見つめてゆくことが本来のあなた自身を取り戻すことにつながることを。

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2011/11/08

アカデミーの闇

『フリタージュの真実』にも記しているが、ケルヴランとほぼ同時期に生物学的元素転換を実験的に検証した人物として知られているのがフランスの化学者、ピエール・バランジェである。

このバランジェが行なった実験についてはフランスの科学誌『シアンセ・エ・ヴィ』でも紹介されており、かなり有名ではあるが、生物学的元素転換をテーマとする論文はごくわずかしか残されていない。

1973年にバランジェと会見したレオン・ゲゲンによると、彼はあらゆる研究を元素転換に結びつけようとするケルヴランの性向に憤りを感じていたという。しかしながらバランジェが最終的に自らの実験を含めた元素転換の現象にどのような見解を抱いていたのかは明白になっていない。

ところが今年のICCF-16でJ・P・ビベリアン博士が公表した論文によると、バランジェは1970年に実験レポートをフランス科学アカデミーに提出したが受け入れられなかったという。またバランジェの死後、彼の家族がその論文を1976年にフランス農学アカデミーの委員会に提出したが、これも理由なく拒絶された事実があったらしい。

農学アカデミーでケルヴランの「異端審問」が行なわれたのは1970年2月であり、バランジェの反証実験とされるスービエ・ガデ論文が農学アカデミーで公表されたのは1972年1月である。この事件を経験したステファーヌ・エニンを中心とするアカデミー委員会としては、再び同じ轍を踏むわけにはいかないという思いもあったのだろう。

ビベリアン博士の論文によると、バランジェの家族はその後彼の研究を伝えるためにJ・M・ガセロンという作家に研究書の制作を依頼したという。この著作は小数部出版されたものらしく、フランスの古書店ネットワークで見つけることはできなかった。

そこでフランスの<Rical>にこの件について尋ねてみると、フランス国立図書館に蔵書があるという情報が寄せられた。現在<Rical>にPDF送付の手配を頼んでいるが、もしかするとそこにはまだ知られていないフリタージュ研究のエピソード、そしてアカデミーの闇が潜んでいるのかもしれない。

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