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2009/10/27

フリタージュの旅 (6)

広島滞在の最終日、私たちは再びI社に赴き、先日の講演内容に関する協議を行なった。その後は平和公園、宮島に続く観光として広島城を訪れた。

ヴィソツキー博士は原爆による広島城の被害を尋ねていたが、天守閣の部分が再建されたそうである。広島城は広い堀に囲まれた造りになっていて、天守閣からは昨日訪れた原爆ドームがかいま見えた。城内でピクニックをする小学生たちを眺めて博士は目を細めていた。

その後広島市内で昼食をすませた私たちは岩国市の錦帯橋へ向かった。高速に乗ると昨日訪れた宮島が見えてきたので指さすと、博士は静かにうなづいていた。

いくつかのトンネルを抜けて1時間近く走ると錦帯橋に到着した。テレビで見たことはあるが、実際に渡ってみるとかなり高く大きな橋だった。錦帯橋の向こう側にはいくつかの庭園施設があり、噴水が静かに吹き上がっていた。私たちは山頂の岩国城へと登るロープウェイに乗り込んだ。

岩国城は広島城よりもコンパクトな造りだが端正な美しさをそなえている。内部にはいくつかの日本刀が展示されていたので、私はヴィソツキー博士にこれらの日本刀はダマスカス鋼と同じ製法で作られていると説明した。博士はダマスカス鋼は知っているといってうなづいていた。岩国城から眺める景色はおだやかで、もう少し紅葉が色づくころには綺麗になるだろうと思われた。

ロープウェイで山頂から降りると吉香公園を巡ったが、なぜかやたらに猫の多いところだった。ヴィソツキー博士は木の上の猫を撮影していたが、自宅でも猫を飼っているといっていた。

夕暮れも近づき、私たちは再び高速に乗って広島市内のI社に戻った。そして今後の技術提携に関する協議が行なわれたが、タシレフ博士のRMMについてはヴィソツキー博士が仲介役を担うことを了承してくれた。

その後ホテルに戻った私たちは最後の夕食をともにした。博士と乾杯を交わしながら、今回の講演を振り返って第一段階のプレゼンテーションとしてはまず成功だったのではないかと感じていた。博士はホテルのすき焼き定食を気に入ったらしく、私が発音した「SUKIYAKI」という言葉を繰り返していた。

次の日の早朝には博士は広島空港に出立しなくてはならなかったので、フロントにモーニングコールを依頼した。私はチェックアウトまでゆっくりして帰る予定にしていた。

ホテルの自室の前で「Thank you for your cooperation」と今回の別れを切り出すと、博士は「Thank you for your translation」と言って、また地上のどこかで会おうと約束した。

翌朝、晴天の広島を後にした私は新幹線の窓から流れる景色を眺めていた。4年前に横浜で会ったときにはもう再び会うことはないと思っていたが、今回の旅を通じてお互いの人間性も理解しあえたことに静かな喜びを感じていた。そしていつかまた会えるという不思議な確信が浮かんでくるのを感じていたのである。

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2009/10/15

フリタージュの旅 (5)

平和公園と宮島の観光を終えた私たちはホテルで夕食をともにした。

私はヴィソツキー博士にキエフにもチェルノブイリ博物館のようなものがあるのかと尋ねた。博士によると小規模なものはあるらしいが広島ほどのものではないそうである。広島は歴史的なものとなっているが、チェルノブイリは今なお困難な問題として存在していると語っていた。

私は日本でも六ヶ所村という再処理工場が稼働しておらず、放射性廃棄物が溜め込まれ続けていることを伝えた。博士は六ヶ所村という地名は知らなかったが、アメリカでもネバダ砂漠に放射性廃棄物を埋設処分する政策がとられていると言った。この言葉で私は、日本のNUMOが進めている地層埋設処分はアメリカの受け売りであることに気づかされた。

ヴィソツキー博士はチェルノブイリのみならず放射性廃棄物の処分は世界的な問題であり、アメリカの地層埋設処理は放射能が減衰するまで気の遠くなるような管理が必要であるためナンセンスだといった。一方放射性元素を分離するヨーロッパの方針も膨大なコストがかかるために非現実的であるという。
MCTによる元素転換はある意味で理想的ではあるが、今のところ全ての放射性元素を処理することはできないし、何より核物質の取り扱いに関しては国際的に様々な問題がからみあって一筋縄ではいかないのだという。

つまるところ現在最も理想的な手段は、全ての放射性廃棄物を集めてロケットで太陽に投入することだと博士は語った。これには私も酒が進んだせいかなと思ったが、博士によると太陽は天然の核反応炉だからこの方法が一番良いらしい。ただし、これも地球の軌道上に放射性廃棄物が拡散するリスクがあるという。

この日はちょうど国連の安保理で「核のない世界」をめざす決議が行なわれたことをニュースで報じていた。
政治家というのは常にかけ声ばかりである。彼らは決して自らの手を汚すことはない。その汚れなき手で指さす未来に私たちは決して幻想を抱いてはならないだろう。

夕食を終えて私たちはホテルのフロントに出た。博士は外の空気を吸いたいらしく、ホテルの周囲をひと回りしようと表に出た。昨日は小雨が降っていたが、今日は星が見えていた。
博士は歩道の中央にあるブロックをセンターラインかと尋ねた。私がそれは目の不自由な人のためのものだと伝えると、博士は目をつぶってそれをたどりながらうなずいていた。
その後もたわいもない話をしながらホテルのまわりを歩いていったが、今となってはあまり覚えていない。来月にはイタリアのICCFに参加し、来年の3月にアメリカの学会に参加することを博士は話していた。
充実した時間に満足してこの日は眠りについた。

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2009/10/09

フリタージュの旅 (4)

目が覚めるような青空のもと、原爆ドームにはたくさんの観光客が訪れていた。
感慨深げな表情のヴィソツキー博士は、解説パネルに目を通したあと原爆ドームを撮影していた。
Oct16002 I社のスタッフが私たち二人の写真を撮ってくれた。

その後私たちは広島平和記念資料館へと足を運んだ。私はおよそ三十年前に修学旅行で訪れたことがあったが、その時の資料館とは外観も展示されている内容もかなりリニューアルされていた。博士はロシア語のガイドレシーバーを借りて、ゆっくりと館内を見てまわっていた。

地元の小学生や外国人観光客に混じって私たちは展示物を眺めていたが、私にはふと、この道に迷ったような観光客が世界で唯一ともいえる独創的な研究を進めている物理学者とは誰一人気づかないことに不思議な感慨をおぼえていた。

言葉少なに資料館を後にした私たちは、平和公園近くの遊覧船に乗って宮島に行くことにした。
30分ほど待って遊覧船に乗り込んだ私たちは、いくつもの橋を越えて海に出るクルージングをデッキから楽しんだ。
宮島に着くと商店街の料理屋で昼食をとったが、そのときにヴィソツキー博士は他の研究者たちについていろいろな話をしてくれた。タシレフ博士がヘビースモーカーであり、奥さんと死別して子供が母方に引き取られていることや、キエフ微生物学研究所には娘も勤務していることなどを聞いた。
そういえば、ある論文にアンナ・タシレバという名前があったのでタシレフの妻かと思っていたが、それが次女だという。
ロシア語圏の女性のファミリーネームの最後には必ず a がつく。男がTashyrevなら女はTashyrevaになるのである。だからロシア・ウクライナでは名字で男女の区別がつく。シャラポワのお父さんはシャラポフであり、スルツカヤのお父さんはおそらくスルツキーになるだろう。

宮島の厳島神社では結婚式が行われていた。潮の香りを気持ちよく味わいながら、私たちはその式で披露されていた舞踏を鑑賞した。
宮島には鹿が多く生息している。渡航前に博士にそれを説明しようとしたのだが、鹿という英語がとっさに出てこなかったので、「バンビ」と言ってしまった。それでも通じないようなので行ってみてのお楽しみにしておいた。

厳島神社を出ると、I社のスタッフが弥山に登るロープウェーに案内してくれたが、ロープウェー乗り場までかなりの山道を歩かされた。途中でくたびれている外国人観光客にヴィソツキー博士は「Let's go!」と声をかけていた。60歳をこえているのに博士は元気で、毎日通勤時には3~4km歩いてから地下鉄に乗るといっていた。さすがMRETアクティベーターを2台使っているだけのことはあると感心した。

二つのロープウェーを乗り継いでたどり着いた弥山展望台からは、少し霞んでいたが瀬戸内海の眺望が満喫できた。ヴィソツキー博士もその景色を楽しんではいたが、その頂上にある岩石にも興味をもったようで、科学者らしい一面が垣間見えた。

少し喉が渇いたので自販機で飲み物を買おうとしたところ、ヴィソツキー博士はオレンジジュースを飲みたいといった。博士は食事は何でも残さず食べるのだが、飲み物にはこだわりがあり、コーラは化学物質なので飲まないという。ホテルで食事をとったときに冷たいウーロン茶が出てきたら、何で冷たい茶なんだと言い出した。体調にもよるのだろうが、基本的に冷たいものより暖かいものを摂りたいようで、ICCFで札幌を訪れた時は非常に寒く熱燗を飲んだという。

ロープウェイで下山した後は五重塔と千畳閣に立ち寄った。紅葉の時季にはさぞ綺麗に見える所だろう。
帰りに商店街どおりを歩いたときに何かお土産を買うかと尋ねたら、即座にノーと断った。世界中の土産物は全部中国製だという。アメリカに行ったときにネイティブ・インディアンの細工物を買ったことがあるそうだが、それもメイド・イン・チャイナだったそうである。

帰りは再び平和公園行きの遊覧船に乗りこんだ。船のスピードはかなり速かったが、一日観光したせいか気分はゆったりしていた。
遊覧船から陸に上がって車を止めた駐車場に向かう途中で、ヴィソツキー博士が何かを見つけて声を上げた。それは小さな石碑のようなもので、Hypocenterと書かれていた。広島原爆の爆心地を示すモニュメントだった。
博士のカメラはバッテリーが切れていたので私のカメラで撮影を行ない、この日はホテルへと帰ることになった。

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2009/10/06

フリタージュの旅 (3)

9月23日、この日も朝9時にホテルを出るとI社へと向かった。
今日の講演は「水の記憶作用とその活性技術の有用性」というもので、MRETに関するものだった。
前日の講演で通訳に苦労したので、この日はパソコンのファイルを事前に閲覧して内容の把握に努めていたが、席に戻ってきたヴィソツキー博士は難なくそれを一番最初に戻してしまった。

その内容はかなり専門的なもので、先月リリースされた新作「活性水の応用生物物理学」(Applied biophysics of activated water)の内容とほぼ一致するものに思われた。
「これを説明するのか。。」
私は今回の通訳は彼のコメントを翻訳するのではなく、MRETの研究の概要を伝えることに重点を置こうと考えた。I社のスタッフはMRETについては私から聞き及んだ程度だったからである。

私はここでこの夏に完成した小冊子の「MRETウォーター」をスタッフに配布した。これを基本的な資料として解説を進めていったのだが、この本を作っておいてよかったとしみじみ感じていた。
講演後には持参したMRETアクティベーターでミルクを活性化し、昼食時にその違いを比較してもらった。こうしたものは実際に試してもらうのが一番である。ほとんどのスタッフがその違いを感じ取れたようだった。

Sep29015 その際にヴィソツキー博士に水以外のものをMRETで活性化できる可能性についてどう思うかを質問した。博士自身もサイズの異なるアクティベーターを2台使用しているとのことだったが、意外なことにその可能性についてはあまり肯定的ではなかった。だがこれは実験的に確認していないのではっきりしたことは言えないのだろう。MRETについてはオイルなどを活性化した場合も有効だったという報告がなされている。今後このような検証も進められてゆくに違いない。

23日の夜は少し小雨が降っていたが、24日には秋らしい晴天になった。
この日はI社の配慮で広島市内の観光へと行くことになった。まず立ち寄ったのはヴィソツキー博士の強い要望もあった平和公園である。

博士は広島に投下された原爆の候補地がいくつかあったことや天候のために広島に決定されたことなどを知っていた。また原爆投下後の広島は100年間草木が生えないといわれていたが、残留放射能によるホルミシス効果もあったのではないかと語っていた。

思えばチェルノブイリという悲惨な原発事故を経験したウクライナという国で放射能を消滅させるMCTの研究を進めている物理学者が、HIROSHIMAという歴史的に知られた被爆地を訪れることには何か因縁めいたものを感じざるをえない。

広島市内に車を止め、私とヴィソツキー博士は同行したI社のスタッフとともにその象徴的モニュメントである原爆ドームへと歩いていった。秋というには眩しすぎる陽光がふりそそいでいた。

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2009/10/01

フリタージュの旅 (2)

9月22日、AM10:00にホテルをチェックアウトした私たちは迎えの車に乗り込み、I社の本部へと向かった。
会議室に通されると、すでにヴィソツキー博士からの要望どおりパワーポイントによる映写の準備が整っていた。

講演に先立ち、まず私の方から今回紹介するキエフ・グループの各研究の相互関係、すなわちヴィソツキー博士のMCT、タシレフ博士のRMM、スミルノフ博士のMRETに関する概要の説明を行なった。
この日はMCTとMRETに関する公演が行われる予定だったが、ヴィソツキー博士は一つの講演を終えた後にそれに関するディスカッションを行ないたいと希望したため、まずMCTに関する研究内容についての講演が進められることになった。

この講演についてはI社の方から私に通訳をお願いしたいとの要望が事前に出されていたが、博士の英語を知っている私はその場での通訳をこなすことは難しいことを伝えていた。しかし、なかばなし崩しにその講演の通訳を担当することになってしまった。

MCTに関する講演内容は私にとって特に珍しいものではなく、それを解説することは困難ではなかったが、博士のコメントを伝えるのはなかなか骨が折れた。

この日の講演で特に興味深かったのはタシレフ博士から託されたCD-filmの上映だった。インフルエンザで来日できなかったタシレフ博士の講演はなくなったが、そのかわりにウクライナ南極基地で撮影された微生物顆粒を使用した浄化処理システムが上映された。これは私も初めて目にするものであり、ヴィソツキー博士のMCTも基本的にRMMの微生物顆粒を使用していると述べていたので、実質的にMCTの実物と考えられるものがそこに示されていた。

MCTに関する講演とRMMのCD-filmの上映後に昼食をとり、その後再び、それぞれのテクノロジーの関係性と実用性に関する議論が行なわれた。I社は様々な事業を手がけているが、その中に環境事業が含まれており、特に水の浄化処理に関心を抱いていた。ヴィソツキー博士はある程度タシレフ博士の研究にも精通しているが、それで詳細な研究データに関しては不明な部分があったので、今後はそれを確認する作業が必要になるものと思われた。
ディスカッションの終了後に私は博士にもっと slow english で話してほしいと頼んだが、博士は軽く笑っただけで、その後もその勢いはとどまることを知らなかった。

この日はI社のスタッフとの会食が行なわれ、かなりの盛り上がりを見せた。I社の幹部がヴィソツキー博士に、ケルヴランの研究を実証したことに敬意を表すると述べたところ、博士はケルヴランと同じテーマの研究をしていることは確かだが、全く異なるレベルで進めていると答えた。さらにあなたの宗教はギリシャ正教かという質問がなされたが、私は物理学者だと博士は答えていた。「科学は宗教ではない。」という彼の答えは、いみじくもケルヴランの言葉と符合するものであったことは興味深く感じられた。

ホテルへの車中で博士は自分の息子がコンピューター技術者であり、シリコンバレーにいると話した。また自宅には世代の異なる7台のコンピューターがあるとも言っていた。博士は小さなパソコンを持参していたが、最初のホテルでは海外の三つ穴コンセントがなく接続することができなかった。そこでこの日はI社からアダプターを借りてホテルでネット接続しようとしたのだが、モニターは表示されるのだが接続はできなかった。

夕食時にこのことを聞いた私は、食後にフロントに立ち寄ってネット接続できるように頼んだところ、サービスマンが博士の部屋を訪れた。しかしながら表示がロシア語のため、どのように設定を変更すればいいのかわからず、試行錯誤を繰り返すはめになっていた。日本語表示のシステム構成と対比しながら、作業を小一時間ほど進めたところ、ようやくネット接続することが可能になった。これで大学の状況を確認することができると博士は喜んでいた。こうしてようやく私たちは「ナドブラーニチ」(ウクライナ語で「おやすみ」)といって眠りにつくことができたのである。

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