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2008/10/28

彼方に燃える炎

「フリタージュの真実」を上梓したあと、私はレオン・ゲゲンに2冊の完成本を送った。フランス農学アカデミーにも寄贈してもらいたいというのが彼の意向であったが、表紙の写真の許諾について終身幹事に連絡を取るという言葉を最後に音信は途絶えている。
だが、その後も彼はいくつかの雑誌などに生物学的農法と元素転換説、そして私との長い議論について寄稿していたようである。よほど私との交流が印象に残っていたと思われる。
http://www.la-cuisine-collective.fr/dossier/cerin/print.asp?id=120

「フリタージュの真実」に収録されている「式部官の回想」を読まれた方ならおわかりになると思うが、私とゲゲンとの議論はときに激しい論争の様相を呈するものとなった。本に掲載されている内容は、その中から読者の理解に資すると思われるものだけを抽出している。

ゲゲンと約束していた本を送付したとき、彼はそれに対して礼を述べるとともに「これまでの議論を通じてのあなたの結論を示してもらいたい。」と切り出してきた。私の見解は基本的にノエルアンに近いものがあるが、最終的には読者に判断を委ねるものであり、本書において私個人の結論を読者に押し付けるつもりはないと答えておいた。

ゲゲンはあまり得心のいく様子ではなかったが、それが彼の文章における「蒙昧主義」との表現へとつながったのかもしれない。今はなき錬金術師と切り結んだ男は三十余年の恩讐を経てなお不屈の闘志を失っていないようである。
それはあたかも、このフリタージュを包む闇の彼方に浮かぶ炎のように思われる。そこには科学的世界観を守る砦があり、異端者を決して近づけようとはしない。

炎を知る私はあえてそこに近づこうとは思わない。それによって照らされる存在もあれば、焼き尽くされたものも数知れないことを暗黙のうちに理解しているからである。

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2008/10/21

大地の瞑想

ケルヴランに関心をもつ人の中に無肥料栽培を志す方が多いことは以前にも書いたことがある。
今年の7月に連絡を頂いた麓工房(http://www.k3.dion.ne.jp/~roku-kk)の勝水氏もそのような方の一人だった。

勝水氏は北海道で木工作品を制作している方だが、将来的に無肥料栽培を行なうためにいろいろと情報を収集していた。その過程でケルヴランの元素転換説を知るようになったらしい。

無肥料栽培に関心をもつ方が本を注文される場合には必ず忠告することがある。それはケルヴランの著作はあくまで元素転換説への基本的な入門書であり、無肥料栽培を具体的に実践するための技術について述べたものではないということである。
せっかく関心をもたれた方に水を差すようだが、本の内容が予想と異なるためにがっかりされるのも困ると思うので、注文をキャンセルされることを覚悟であらかじめそのように伝えている。勝水氏も無肥料栽培を実際に始めているわけではなかったので、私は手元にあった無肥料栽培の資料等をお送りして話はそこで終わってしまった。

ところが先日、勝水氏から10月に倉敷で個展を開催するというご案内のはがきが届いた。
フリタージュを通して出会った方と実際にお会いする機会はほとんどない。これも何かの縁かもしれないと思い、私は会場に足を運んだ。

Oct20192 ちょうどお昼休みだったらしく会場には受付の方しかいなかったが、私はゆっくりと展示されている作品を鑑賞していった。小さなお盆から大きな机や椅子といった様々な作品が陳列されていた。
私はこのような世界にあまり詳しくはない。ただ作品に浮かび上がる微妙なラインや木目の流紋には静かな存在感が感じられた。それはまるで大地の瞑想を表しているかのように思われた。

鑑賞を終えてしばらく休んでいると、やがて勝水氏が現れて挨拶を交わした。そして作品に表現されている微妙な湾曲は熱や圧力で加工したものではなく、亀裂を避けながら木質の内部の応力によって自然に湾曲させたものであることを解説して頂いた。
そこには自然を外側から支配してコントロールしようとするのではなく、その内部にある本質的なエネルギーを引き出そうとするテーマが感じられる。そのような作品を作る方が無肥料栽培に魅力を覚えるのも当然だと思われた。

話が無肥料栽培に及んだので、私は見本として持ってきた『生物学的元素転換』を彼に見てもらった。そして無肥料栽培の実践に直接役に立つものではないが、一つの考え方として元素転換というものがあることをお話しさせて頂いた。

勝水氏は私の話を聞いていたが、突如「私の作品と交換しませんか?」と提案した。これには私も少なからず驚いた。こういう世界に疎い私ではあるが、個展を開くような作家の方が自分の作品との交換を申し出られたのである。
結果、ありがたくそのお申し出を受け入れ、『生物学的元素転換』を彼の作品の一つと交換させて頂いた。

お話を伺うと、木工作家として作品作りを続けているが経済的には大変な面もあるそうである。そのような理由もあって無肥料栽培を志しておられるということだが、厳しい北の大地では容易ではない挑戦になるだろう。

それでも彼は木の生命というものを知っている。無肥料栽培への挑戦を通じてその生命観はより深く醸成されてゆき、やがてそれは彼の作品作りにも深く反映されてゆくに違いない。

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2008/10/14

想念の結晶

最近のテレビでも取り上げられたが、コップに入れた水に「ありがとう」と語りかけたり、それを書いた文字を見せることによって、その水はきれいな結晶を作るようになるという話がある。これは江本勝とかいう人の「水からの伝言」「結晶物語」という著作の中に記されているもので、学校の道徳教育にも取り入れられているという話である。
この都市伝説みたいな話は以前からたびたび取り上げられており、それを信じる人もいれば否定する人も多いようである。

私自身はその著作を何冊か立ち読みした程度なので明確なことはいえないが、中にはそれを元素転換と結びつけようとする輩もいるらしく、少し困惑を覚えている次第である。

思えばこれまでケルヴランに言及してきた日本人というのは、その研究を正しく理解しているわけではなく、自分の主張を正当化するためにケルヴランを利用しようとした人間がほとんどである。その意味では日本人の大半がケルヴランを二重の意味で誤解しているといえるだろう。
せめて私の翻訳書を読んだ方々は、そのような人々の言説に踊らされることなく、彼らの言葉の奥にあるものを見ぬく見識をつちかって頂きたいと願う次第である。

「ありがとう」という言葉の波動、あるいは言霊のエネルギーが結晶の形成にどのような作用を及ぼすのかは知らないが、少なくとも江本氏の著作に掲載されている写真がどのような方法で撮影されたのかを示す情報は見当たらなかった。

水に限らず、結晶の形成にはその骨格となる単位格子というものが存在する。
たとえば雪の結晶はきれいな六角形だが、なぜ六角形になるのかおわかりだろうか?
詳しい理論は別にして、これは基本となる単位格子が対称的な六方形態をとっており、その各結晶面の成長速度に格差が生じるためである。これには結晶する温度環境などのファクターが関係しており、それによって様々な形の雪の結晶が生まれることになる。

また時計の発振体に使用されるクオーツは水晶の結晶体だが、現在クオーツ時計に使用される水晶は全て人工的に合成されたものである。これは天然の水晶では一部の結晶面の成長速度が遅いためであり、合成されたクオーツは天然の水晶とは似つかぬ棒状や板状に形成されている。

私が目を通したかぎり、江本氏の著作にはこのような結晶学の基本概念すら見当たらなかった。それゆえステファーヌ・エニン風にいえば、「このような研究は検討することさえ値しないと私は考えるものである。」

もちろんそれを信じようと信じまいと個人の自由ではある。おそらくそれに興味を引かれる人々はその奥にある世界観、すなわち全ての存在が響きあう愛と調和に充ちた世界を夢見ているのかもしれない。
それはそれで構わないが、そのような共同妄想が自己増殖していく様相こそ「想念の結晶化した」見えざる現実といえるのではないだろうか。

Oct14191 ちなみにこの二つの写真は、通常の水と活性化したMRETウォーターを分散染色法で撮影したものである。「水からの伝言」の信者ならどちらの結晶がMRETウォーターのものであるかを即座に判別することができるにちがいない。

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2008/10/03

フリタージュ・マトリックス

ヴィソツキー博士らの研究に「ウォーター・マトリックス」というものがある。これは水の記憶作用をクラスレート・ハイドレート構造をもつ分子モデルによって解釈しようとするものである。

この水分子のクラスレートは水の加熱や冷却など様々な方法によって生成するようだが、この構造の中にマイクロキャビティーというオングストロームレベルの包接空間が形成される。周囲の温度変化によってこの中に水分子が取り込まれる緩和時間と放出される緩和時間に格差が生まれることによって水の記憶作用が生じているというのが彼らの見解である。

このマイクロキャビティーを形成しているのも当然水分子なのだが、その中に取り込まれた水分子はマイクロキャビティーの水分子と反応することはなくなり、いわば特殊な「疎水性」の状態になるという。
疎水性というと高校で習ったコロイドの性質だが、水分子そのものが疎水性になるというのはきわめて特異な状態であり、常識的には考えにくいだろう。

たしか子供の頃に、ボールの中が中空になっていて、そこにさらに小さなボールが入れられた玩具があった。そのボールを投げると内部のボールが内壁にぶつかって渦を巻くような飛び方をするのだが、マイクロキャビティー内の水分子の状態も例えるならそのような状況にあるのかもしれない。

彼らはそれがMCTなどによる元素転換反応とも関連していると考えているようだが、ここでふと思うのは、原子核の内部にもこのようなクラスレート構造の可能性があるのではないかということである。

ケルヴランは元素転換が生じる要因として核子クラスターの存在を示唆したが、他にもR・ムーンなどが原子核内の核子が正立体に基づく配位構造をとっているのではないかという仮説を提示している。
もし核子がクラスレートのような構造を形成して、別の核子を吸収・放出するマイクロキャビティーのような機能をそなえていれば、そこに吸収された核子は「記憶を保持したまま」、周囲の核子とは一時的に反応しない状態になる可能性もあるのではないだろうか?

ヴィソツキー博士はさすがにそこまでは述べていないが、もしこのような考え方を進めていくなら水の記憶だけではなく、「原子の記憶」をも説明するフリタージュ・マトリックスという作業仮説も成立してくるのではないだろうか。
そしてそれは、彼らの示したフリタージュ反応を本当の意味で説明するものになるものなのかもしれない。

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