<司るもの>
最近になってまたリウマチの症状が再発してきた。昨年発症してちょうど一年になる。
しかし今回は手がこわばるのではなく、指が腫れてきている。ホメオパシーの薬も服用しているが格段の変化は見られない。どうやら第2ステージに入ったようである。
とりあえずこのように指は動かせるが、季節外れのしもやけになったような感覚である。自分の体なのに自分でどうすることもできないという、人間は不便な生き物である。
聞く所によるとリウマチにも様々な種類があり、またそれに似た症状の病気もあるらしい。詳しい検査を受けたわけではないので自分の病状の正確な所はわからないが、病院で検査してもらおうとは思わない。病気の名前が変わり、薬の名前が変わるだけだろう。
現代医学ではこのリウマチなどのように完治させることのできない病気がたくさんある。それはその病気の真の原因をつかむことができていないというより、何か方法論的な過ちがそこにはあるのかもしれない。
私たちが目にするあらゆる現象には、決して表には現れない<司るもの>が存在している。
生きている人間と死んでいる人間は物質的にはそれほど大差はない。そして現代の医療なら人工的に呼吸させたり、心臓を動かしたりすることも可能である。しかし私たちの魂や精神、意識といった<司るもの>が働かなくなったとき、それを「生きている」ということはもはやできないのかもしれない。
フリタージュに関しても同様のことがいえる。そこに何らかの反応が生じるということは、現象化させるための条件が整うとともに、それを主導する何らかの<司るもの>があるはずである。
ケルヴランはその実体を酵素による原子核レベルの特殊な酸化還元反応だと考えた。それが正しいか否かは別としても、そのような特殊な反応を酵素に行なわせた「何ものか」がそこに潜んでいると考えることはできないだろうか。
語弊を恐れずに例えてみると、それは心理学者のC・G・ユングがかつて主張したような「集合無意識」のようなものなのかもしれない。微生物の共生体であるMCTがフリタージュ反応を示すということは、個々の微生物が全体的な意識を共有しているようにも思われる。
私たち個人を<司るもの>も、もしかするとより深いレベルで共生化を可能にする宇宙的な可能性を秘めているのかもしれない。しかし神が与えたその能力を人類が発現する日は、はたして訪れるのだろうか?
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