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2008/09/26

錬金術師の夢

今年は『フリタージュの真実』を完成させ、さらには『生物学的元素転換』をオンデマンド化した。それだけでも十分な仕事といえるが、現在は新たな視野の下に様々な作業を進めている。

その一つにヴィソツキー博士の『生体系における同位体の元素転換と核融合』の翻訳があるが、これは『フリタージュの真実』以前から取り組んでいるものでもある。
しかし彼らのロシアン・イングリッシュはケルヴランのフランス語よりも難解なものである。その研究背景等をかなり調べないと適切な翻訳にはできない。すでに第4章まで進んではいるが完成は来年の話にはならないだろう。

だが、その内容にはなかなか示唆に富む部分がある。彼らの研究の一部については『フリタージュの真実』でも紹介しているが、この著作にはさらに詳しい問題点の検討が行われている。
たとえば鉄54を生成する反応について、彼らはいくつかの元素の存在がその反応に間接的に関与していることを述べている。

例を上げると塩素は培養菌の成長を遅らせる効果があり、硫黄も塩素ほどではないが同様の効果をもっているという。それに対してアセチル基は成長を促進する作用がみとめられたとのことである。
このような培養菌に対する影響に加えて、セシウム133の存在は元素転換の効率を1.5~2倍に高める効果があったという。

ところがセシウム133は安定同位体であり、培養菌の成長にも影響する元素ではない。したがって放射能のホルミシス効果もありえないし、なぜフリタージュ反応に対する触媒作用をもっているのか明確にはわからないという。彼らの仮説としては、セシウム133が何らかの形でクーロン・バリアの短時間の消失を引き起こす役割をもっているのではないかという。だがそれも今のところは作業仮説に過ぎないようである。

このように考えていくと、フリタージュ研究というものの実証性の難しさが理解されるだろう。安定元素から安定元素への転換が生じた場合、それは放射能などによる検出は不可能である。まるで電荷をもたない素粒子を探そうとするようなものだ。そしてそこに何らかの安定元素が触媒として関与している可能性があるとすれば、これまで元素転換説を否定する研究者たちが行なってきた反証実験はその意義を失うことになるだろう。

このような可能性についてはケルヴランもほとんど語ってはいなかったように思われる。しかしもしそのような現象が実在するのであれば、フリタージュの実体的なメカニズムに重要な役割を果たしていることも考えられ、ひいてはその解明に寄与する手がかりになる可能性もあるだろう。
それはノン・ゼロ・バランスという形でしかその実在を主張することのできなかった錬金術師の夢を叶える手段といえるのかもしれない。

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2008/09/19

花崗岩のメタモルフォーゼ

ゲーテは色彩論や植物のメタモルフォーゼを通して科学研究家としても知られているが、地質学についても造詣が深かったことはあまり知られていない。しかしワイマール公国枢密院参事官でもあった彼はイルメナウ鉱山の開発などにも関与しており、地質学に関する独自の見識を深めていったという。

ゲーテは地質学に関する様々な手稿を残しているが、その中で花崗岩についても記している。彼にとって花崗岩は「地球の最も底にある岩石」であり、石英・長石・雲母という鉱物の見事な「三位一体」の現れであるという。そしてそれはメタモルフォーゼによって別の岩石に変化することもあれば、他の岩石が花崗岩を形成することもあると述べている。

ゲーテの言説は古きよき詩的夢想と捉えられてきたが、それを一つの独創的な学説として甦らせた人物がいる。それがケルヴランとも共同研究を行なったG・シューベルである。

G・シューベルについてはこれまでにも取り上げたことがあるが、彼は1952年に「花崗岩と原子核物理学」という論考を公表し、その中で<原子核パリンジェネシス仮説>というものを提示している。

パリンジェネシスという概念を最初に確立したのはフィンランドの地質学者J・J・ゼーダーホルムである。花崗岩質マグマが固結した後、地殻変動などで深部に落ちこみ、再び再溶融して新しいマグマとして流動するという現象を彼はパリンジェネシスと名づけ、花崗岩化作用の大きな動因として位置づけた。
ゼーダーホルムによると、このパリンジェネシスに際して<アイコア>という花崗岩質溶液が形成され、アナテクシスという超変成作用が地下深部で生じるという。これにより花崗岩・片麻岩・結晶片岩が広範に流動化して再生マグマが形成されるというのである。

もっともこのような考え方はゼーダーホルムが最初ではない。A・ラクロワの「鉱化剤」や「派生エマネーション」、P・テルミエの「コロン・フィルトランテ」も<アイコア>とほぼ同義であり、岩石を花崗岩化させるために必要な元素を含んだ高温の水蒸気が地下内部を流動するというものである。

しかしゼーダーホルムの<アイコア>もアナテクシスも、彼のパリンジェネシスという概念を定立させるために都合よく作り出されたものであり、実際に観測されたものでもなければその具体的なメカニズムも解明されていなかった。
そのことを見抜いたG・シューベルは、花崗岩化作用を拡大再生産するためのこうした仮構的概念に依存することをやめ、原子核レベルでの花崗岩化作用の可能性を提唱したのである。

その主張はかつてのゲーテの言葉のように時代に受け流されたわけだが、やがて錬金術師と出会ったG・シューベルは新たな方向性へとその鉱脈を追い求めることになる。そして彼が残した様々な論考は、ゲーテと同じようにいまなお私たちにその命題を突きつけているのである。

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2008/09/11

エネルギーと次元

生体内で核反応が生じるという生物学的元素転換について否定的見解をもつ人は数多い。その大半の人は原子核物理学の知識を拠り所にしている。

私たちは高校や大学の授業、また巷の科学雑誌によって核反応には莫大なエネルギーが必要なことを教えられている。事実、そのような核反応のエネルギー理論に基づいてシンクロトロンなどの研究施設も建造されている。
したがって原子核レベルの反応には必ず高エネルギーが必要であるという固定観念が形成されている。
もちろんそれは誤りではないだろう。しかし、受験勉強のために学校で教えこまれたことに対して全く疑問を抱かないのは不思議な感じがする。

その一つに「エネルギー」という概念がある。
私たちは様々な形態のエネルギーを「知っている」。電気や磁気、重力、弱い核力、強い核力など、言葉の上では。
だが変換の効率は別としても、それらを一律に同じ「エネルギー」という言葉で一括りにできるのだろうか?

たとえば重力は(ヒッグス粒子がそれを担っているといわれているが)物質に固有のものであり、空間的に異方性もなく、基本的に時間に依存しないエネルギーである(ディラックの巨大数仮説によるとそうではないかもしれないが)。
それに対して熱のようなエネルギーは基本的に分子や原子の振動であり、伝播も一様ではなく、時間に依存するエネルギーである。こうしたものを同じようにエネルギーと表現することはできるのだろうか?

もちろんそれを同等に取り扱うことによって物理学の世界が成り立っているのかもしれない。
だが一説によると、私たちのこの宇宙はより多くの次元をそなえた存在であり、空間的三次元と時間の一次元を超えるものは、この次元の中に「折りたたまれている」という。

三次元的思考では少し理解しにくいものだが、もしそれ以上の次元がこの世界に内包されているのであれば、私たちが「エネルギー」と呼んでいるものは、そうした高次元とどのような関わりをもっているのだろうか?

このように次元とかエントロピーと関連するものとしてエネルギーを理解しようとすると、私たちはいかにその表層的な、あるいは三次元的な捉え方しかしていなかったのかと思わざるをえない。
そして核力についても、私たちはそのエネルギーに対する三次元的な考え方を無前提に当てはめているだけなのではないだろうか?

三次元の断面が二次元、二次元の断面が一次元であるように、私たちがこの次元で観察している現象はエネルギー的なものも含めて、より高次元の断面に過ぎないのかもしれない。

もちろんそれを無前提にフリタージュと結びつけるつもりはないが、エネルギー的にありえない現象ととらえる前に、まず学校で教えこまれたその知識が、いかに低次元のものであったかを思い起こすべきではないだろうか?

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2008/09/04

<司るもの>

最近になってまたリウマチの症状が再発してきた。昨年発症してちょうど一年になる。
しかし今回は手がこわばるのではなく、指が腫れてきている。ホメオパシーの薬も服用しているが格段の変化は見られない。どうやら第2ステージに入ったようである。

とりあえずこのように指は動かせるが、季節外れのしもやけになったような感覚である。自分の体なのに自分でどうすることもできないという、人間は不便な生き物である。

聞く所によるとリウマチにも様々な種類があり、またそれに似た症状の病気もあるらしい。詳しい検査を受けたわけではないので自分の病状の正確な所はわからないが、病院で検査してもらおうとは思わない。病気の名前が変わり、薬の名前が変わるだけだろう。

現代医学ではこのリウマチなどのように完治させることのできない病気がたくさんある。それはその病気の真の原因をつかむことができていないというより、何か方法論的な過ちがそこにはあるのかもしれない。

私たちが目にするあらゆる現象には、決して表には現れない<司るもの>が存在している。
生きている人間と死んでいる人間は物質的にはそれほど大差はない。そして現代の医療なら人工的に呼吸させたり、心臓を動かしたりすることも可能である。しかし私たちの魂や精神、意識といった<司るもの>が働かなくなったとき、それを「生きている」ということはもはやできないのかもしれない。

フリタージュに関しても同様のことがいえる。そこに何らかの反応が生じるということは、現象化させるための条件が整うとともに、それを主導する何らかの<司るもの>があるはずである。

ケルヴランはその実体を酵素による原子核レベルの特殊な酸化還元反応だと考えた。それが正しいか否かは別としても、そのような特殊な反応を酵素に行なわせた「何ものか」がそこに潜んでいると考えることはできないだろうか。

語弊を恐れずに例えてみると、それは心理学者のC・G・ユングがかつて主張したような「集合無意識」のようなものなのかもしれない。微生物の共生体であるMCTがフリタージュ反応を示すということは、個々の微生物が全体的な意識を共有しているようにも思われる。

私たち個人を<司るもの>も、もしかするとより深いレベルで共生化を可能にする宇宙的な可能性を秘めているのかもしれない。しかし神が与えたその能力を人類が発現する日は、はたして訪れるのだろうか?

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