科学の品格
少し以前に「品格」というワードが流行ったことがある。そのようなタイトルの本もいくつか出されたようだが、あいにく私は目を通していない。だが、マナーにうるさい人間ほど品がないように思えるのは私だけだろうか。
今回『生物学的元素転換』のオンデマンド化のために、ひと通り読み返して変更すべきところをチェックしたのだが、ケルヴランの科学者としてのスタンスが改めて伝わってくる一冊であることを再認識した。
ケルヴランが行なった実験や彼が引用した観察例にはもちろん批判の余地がないわけではない。しかし、それらを通じて語り起こされるフリタージュの世界観には独特な訴求力を感じる。ただそれは機械論的科学の尺度に当てはめると、非常に収まりが悪いものといえるだろう。
たとえば地震予知の研究とか常温核融合などもそうかもしれないが、研究している人々はみな真剣であり、真実を追究しようとしている姿勢に疑いの余地はない。だが、現代科学の枠組みの中ではまだ正当なものとして確立されたとはいえないものである。
思えば科学の歴史は常に異端者が覆してきたものでもある。そしていつの世でも、時代に先んじた者は本当の意味では理解されない孤独を味わってきたといえる。
その時代の科学の枠組みの中で研究活動を行なうことが悪いわけではない。ただ、それが絶対不変な存在と捉えると、科学は真の意味で進化しないだろう。
科学者としてどのようにあるべきか、それは一人一人が自らの研究活動を通じて真剣に問い直すべき課題であり、それによってまだ確立されていない研究を行なっている人間を否定すべきものではない。多くの人は自分の頭の中の知識でそれを判断し、「科学的」な判断方法だと考えているのかもしれない。それらの知識も判断方法もほとんどが洗脳教育による「借りもの」であることも忘れて。
現代科学には現代科学の流儀(マナー)というものがある。だが、それに囚われるあまり、より大事なものをないがしろにしてはならないだろう。
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