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2007/06/24

未来に待つもの

「生物学的元素転換」の制作は今しばらくかかりそうである。これまでに第6刷を数えているが、その全ては同じ本であり全く違う本といえる。
最初はできるかぎり原書に忠実に翻訳し、それを究めることが理想的だと考えていた。しかしケルヴランの他の著作や論文、また様々な調査を続けるうちにそれを超える事実がわかってきた。
そこで若干の躊躇はあったが、私は原書の内容を改編していく作業に入った。その方が結果的により正確な理解につながると考えたからである。

これは普通の仕事でも同じことがいえると思う。最初は仕事の手順等を正確に覚えることに集中するが、ひと通りのことができるようになれば、今度はその仕事をいかに効率よく行なうかが課題になる。そのために経験の中からいろんなことを学び、また試行錯誤することにより仕事も自分もレベルアップしていくのである。
そういうところにこそ仕事の苦しみと喜びがあり、同じ仕事をしていても新しい感覚で取り組める要素も生まれてくる。仕事を楽しめない人というのは、単にお金のために時間を拘束されているからそうなのだろう。

そういう意味では、73年の翻訳書やいま手がけている論文集も変わりはしない。私自身のレベルに応じてどんどん変わったものになっていくことだろう。
論文集について言えば、ようやくスービエ・ガデ論文の翻訳とオペが終了した。これでアカデミー関係の全ての資料の翻訳とオペは完了したことになる。
エニン報告を起点として論争関係の資料には二つの系列がある。その一つが農学アカデミーとフリタージュ学派との対立であり、もう一つはケルヴランとゲゲンの個人的な論争である。
前者の完成に先立ち、後者の翻訳もすでに終わっている。今後は後者の資料のオペが重点的な課題になるだろう。順調に進めば、今年中にはプロトタイプに近いものが完成するかもしれない。

ただし、翻訳した論文をただ並べただけのようなものは作るつもりはない。そんなものなら今すぐにでもリリースできる。重要なことは、こうした重層的なフリタージュの研究の系譜をどのような位相から明確にしていくかということである。そのためにはケルヴランを支持した学者や批判した学者に関しても調査を行ない、補足的な解説を作成する必要があるだろう。

導くもののない道を歩む苦しみはあるが、それはまた望むところの喜びともいえる。いずれその完成した姿をお見せする日が来ることだろう。

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2007/06/18

月とフリタージュ

 以前に「新月の木」」というものに触れたことがある。新月の時期に伐採した木は満月のときに伐採した木より割れにくく、カビも付きにくいという話である。

 新月の木国際協会(http://www.shingetsuno-ki.jp/)によると、新月期に伐採した木は含有されている澱粉の消失が早く、そのためにカビが付きにくいらしい。では、なぜそうなるのかについてはまだ明確ではないという。

 実はケルヴランも植物に対する月の影響には関心を抱いていた。1968年の著作にはR・ハウシュカの実験が紹介されているが、それによると月の周期に合わせて発芽させたクレソンの種子では、燐酸とカリウムが月の位相に対して相対的な変動を示しているという。

 このハウシュカの実験についてケルヴランは元素転換の可能性は明言していない。だが、宇宙線やニュートリノとフリタージュとの関連を検討する以前に月の影響について関心をもっていたことは確かなようである。

Jun18_34  その証拠に70年代に行なったオート麦の発芽実験では、月の位相に合わせた形で発芽処理を行ない、カルシウム含有量の変動をグラフにしている。この実験についてはそれに関して特別な記述はないが、ケルヴランには何らかの意図があったのだろう。

これまで月と生物との関係は潮汐作用に基づく水分代謝のような限定的なレベルで捉えられてきた。しかし、もし月の位相とフリタージュが何らかの関連をもっているとすれば、新月の木の謎にも新たなアプローチが可能になるのではないだろうか。

月明かりに響く潮騒が生命の浜辺に打ち上げたものは、美しい貝殻のような賢者の石なのかもしれない。

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2007/06/11

カハネの批判

前にもお伝えしたが、「生物学的元素転換」が完売したため現在第6刷を制作中である。例によって全体的な校正を進めながら制作を同時進行している。さらに論文集の解説の執筆も行なっており、S・エニンのスビーエ・ガデ論文のオペも行なっている。当然その他の資料の翻訳も進めているので、なかなか時間に追われているのが現状である。
少しゆったり事を進めたいものだが、第6刷はすでに予約も入っているので制作は進めなくてはならない。来月にはこの事態を収拾したいと考えている。

そのような中で翻訳を進めているE・カハネの論考についてだが、長文のわりになかなか核心に触れようとしないので、少し手をこまねいているところではある。だが、カハネの見解は最初から断定的な形で展開されているので、以下に少し紹介してみよう。

「・・しかしながら再び誤った情報が大衆の意識に浸透しつつある。それはあまりにも強固に定着しているので、専門家たちは教育の現場や研究機関においてもその影響に直面せざるをえない。その最たるものは、様々な形で観察されるという生物学的元素転換に関する話題である。」
「この問題についてはこれまで学会の審議に提出された報告もなく(*この時点ではアカデミーへの報告は行われていなかった)、また科学雑誌に公表された論文においてこれらの風説に関するさらなる情報源が示されたこともない。さらに述べておかなくてはならないのは、たとえばケルヴラン氏の著作は個人的に出版されたものであり、出版社の科学委員会による保証をともなうものではないということである。それゆえ著作や文献に対する批判的考証の鋭敏さを身につけていない大衆はそれに欺かれ、彼らが知識としてもっているものの全てと同じ信頼性をもつものと考えてしまったのである。」
「私たちはこのような主張に対して学生や研究者たちの反響、およびG・レ-ストラとJ・ロワゾーによってユニオ・ラショナリステに提示された反論によって警告してきた。さらにこの二人の化学者による論考の公表後、私たちはケルヴラン氏と膨大な書簡のやりとりを行なった。しかしケルヴラン氏はその実験を繰り返すことなく、完全に理論的な論拠に基づいてこの二人の著者と出版社のユニオ・ラショナリステを非難したのである。」

残念ながらこの論争の詳細についてはまだ不明確な部分も多く、今後の調査が必要ではあるが、この論考がまだアカデミーでの論争が開始される以前の1966年に公表されていることは注目に値する。この時期、すでにケルヴランは4冊目の著作を公表している。これが後に英訳される「生物学的元素転換」であり、専門的な難解さをもつ初期の著作から一転して広く大衆に受け入れられた。カハネらの批判はそのような時代の思潮を反映したものとも捉えられる。
この年にはベルギーの栄養学者のE・プリスニエが自著の序文をケルヴランに依頼しており、元素転換説の社会的評価は二分されていたといえるだろう。
カハネの文脈は後の「レゾ・プレザンテ」の論争にもつながるものだが、その全体像を把握するにはもう少し明確な資料がほしいところである。各作業が落ち着いてきたらいずれ調査を進めたいものである。

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2007/06/01

全にして一なるもの

少し前のニュースだが、ミツバチが青信号に群がるという珍事件(?)が報道された。これはミツバチが青信号の波長を好むためと考えられるそうだが、明確なところはわかっていないという。

このニュースを見て私が思い出したのは、かつて見たSFアニメ「キャプテンフューチャー」のワンシーンだった。キャプテンフューチャーとはカーティス・ニュートンという科学者を主人公とする物語で、銀河系世界を舞台に様々な冒険を繰り広げる壮大なストーリーである。

ちなみに子供の頃の私は大の理科嫌いだった。研究や実験作業などは無機質で非人間的な機械的作業の営みとしか思えなかった。だがこのアニメはそんな私に強烈なインパクトを与えるものだった。

現代も子供の理科離れが深刻だという。そこで科学に関心をもたせようと道化じみた科学マジック(?)などを興行しているようだが、実に浅はかなこととしか思えない。「経済の仕組みを教えたい」といって子供に株をやらせる親のようなものである。経済の仕組みを教えたいのであれば、いらなくなった玩具をオークションに出品させるなど他にも方法があるはずである。大人のエゴを押し付けられる子供の方はいい迷惑だろう。

話は少しそれたが、科学に興味を持たせたいのであれば良質なSFアニメの方が大人の言葉よりはるかに影響力があると思う。その意味で「キャプテンフューチャー」はいま思い返してみても科学考証がしっかりしていた。それまでの荒唐無稽な子供だましのアニメとは次元の異なるものが当時の私には感じられた。

不時着した惑星に降り立ったフューチャーたちは「キュービックス」という不思議な生命体を発見した。そしてキャプテンフューチャーは「この生き物はそれぞれが全体としての知性をまとめ上げている。ミツバチやアリのもう一つの進化した形なのだろう。」と述べている。

ミツバチは蜜のありかを特徴的なダンスで仲間に伝えるというし、ハチやアリは様々なフェロモンを分泌して情報を交換し、種属全体としての知的活動を統合している。こうした社会性を持つ生物組織の情報システムに比べると、私たちの使っているウイルスだらけのインターネットなど何とお粗末なしろものだろうか。

Jun01_27_1 このような階層的構造をもつ生体系が全体を一つにまとめ上げる情報機能をそなえていることは、ミツバチやアリよりもさらにミクロなレベル、私たちの細胞などにも適用される概念かもしれない。そうすると、そのような情報システムによって外界の状況に反応し、さらには遺伝子機能を発現させるといった作用プロセスも、全にして一なる知性の働きといえるのだろう。あるいはそこにフリタージュの発現も成り立っていると考えることができる。

青信号に群がるミツバチの群れにどのようなリリーサーフェロモンが作用したのかはわからないが、それもまた彼らにとっての「全体の意思」だったのだろう。いつの日か人類があたかも一つの知性としての社会性をそなえたとき、私たちはいかなる意思に従うことになるのだろうか。

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