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2007/03/05

疑似科学と擬似宗教

さてアカデミー関係の話はこのあたりで機を改めることにしよう。

少し前のことだが、どこのサイトかは忘れてしまったが、このブログを紹介してくれているところを目にしたことがある。紹介してくれるのはありがたいのだが、私の事を<「と」な人>と書いてあった。最初は何のことかよくわからなかったが、どうも「トンデモ科学系の人」という意味らしい。

なるほど、ケルヴランについては学者連中も含め、これまでいい加減なことを言う人間が多かった。そのため、その名前を見ただけでそのような疑似科学的な印象をもたれるようになったのだろう。

どのような捉え方をするのも個人の自由ではあるが、そのような先入観で物事を判断する人はケルヴランについていい加減なことを述べてきた連中と同じレベルと言えるだろう。つまるところ、彼らはケルヴランの著作も論文も読んだことがなく、彼が行なった実験の一つもまともに理解していない。そしてネット検索などで寄せ集めた噂話を自分の頭の物差しだけで判断しているわけである。

腕組みをして物事をながめ、頭の中だけで知識をこね回す人のことをディレッタント(懐手主義)というらしい。このネット検索全盛の時代、これからもそういう人種は増殖していくのだろう。

確かに私もパソコンを調査や仕事の道具として使っている。その恩恵も感じるところではあるが、これはあくまで道具であり、ただの端末に過ぎない。検索作業だけで新しい発見が得られるわけではない。私にしても調査して判明したことの全てを公表しているわけではないのである。

そうしてみると、近年疑似科学に対する風当たりが強くなっているが、ネット社会自体が擬似宗教化しているような印象を覚える。だからこそ多くの人々はそれに洗脳され、情報に盲従するようになっているのだろう。

科学というものがこの世界における共通認識をつちかう営みであるとするなら、宗教というものも、多面性はあるにしてもそれに矛盾するものではないと思われる。しかしながら、疑似科学に対する批判は比較的現れやすいが、擬似宗教に対しては根拠をもつ批判がなされにくい面がある。信教の自由が保障されているのだから、なおさらと言えるだろう。

魔女狩りではないが、疑似科学を糾弾する識者が根拠とする現代の科学技術にもある種の擬似宗教性が潜んでいることを私たちは見逃してはならないだろう。

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