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2007/03/30

大地に捧げる花束

ケルヴランの研究活動を物語るうえで欠かせないのが生物学的農法の存在である。特にR・レマールとJ・ブーシェによるレマール・ブーシェ法は生物学的元素転換に依拠した農法として重要な役割を果たしていた。

しかし残念ながら、現在フランスでBIO(ビオ)と呼ばれる有機農法はレマール・ブーシェ法とは異なるものである。ビオワインなどにはビオディナミ(シュタイナーのバイオダイナミック農法)とビオロジック(有機農法)の二つの認証制度が確立されているようだが、レマール・ブーシェ法と関連をもつものではない。

このレマール・ブーシェ法については良い資料が邦訳されていないので、いろいろと資料を収集していた。最近J・ブーシェの著した『生物学的農法の実践概論』という著作をフランスのオークションから入手したが、小冊子のわりに30ユーロもしたのには閉口せざるをえない。前回のアカデミーの会議報告書もそうだが、ユーロ高には悩まされるところではある。

Mar28_06 この著作の中でブーシェは、植物の生育のための有機窒素分を確保するために堆肥やマメ科の作物の植付けなどを教示している。またバイオダイナミック農法やインドール式堆肥で知られるハワード法なども参考にしており、とくにC/N(炭素/窒素比)はハワード法に倣っているようである。

しかしそれだけであるなら昔ながらの自然農法との差異はない。やはりレマール・ブーシェ法の根幹は元素転換を活性させるというカルマゴルの使用にある。

このカルマゴルについては以前にも記したが、ケルヴランとの明確な関連はつかめていない。しかしケルヴランが『自然の中の元素転換』で引用している微生物学者J・カウフマンが行なったカルマゴルの原料であるイシモを使用した実験を行なっており、ブーシェもその実験については知っていたようである。これはおそらくケルヴランからの情報に基づいているのだろう。

ところで最近面白いことに気づいたのだが、このレマール・ブーシェ法の栽培技法としてアロマセラピーが使用されていたらしいのである。

アロマセラピーとはご存知のとおり、芳香物質のエッセンスを使用してヒーリング効果をもたらすものだが、レマール・ブーシェ法では三種類の芳香物質を栽培植物に散布していたらしい。そしてこれによって間接的に収穫を増加させることができるという。

かつてフィトンチッドという言葉がはやった時期があったが、生態系における芳香物の役割については未解明な部分も多い。その中の一部には防虫効果をもつものもあるので、エコロジーな防虫処理としては有効な技法なのかもしれない。

こうしてみるとレマール・ブーシェ法はバイオダイナミック農法と興味深い対照を示している。バイオダイナミック農法はいわば占星術的・ホメオパシー的傾向をもつのに対してレマール・ブーシェ法は錬金術的・アロマセラピー的要素をそなえた農法と言えるだろう。

そしてこれらの農法に対して、あの錬金術師がどのように関わっていたのかも次第に明らかにしていきたいものである。

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2007/03/23

教皇の裁決

Compte Rendusとはフランス農学アカデミーの会議報告書のことを指す。この会議報告書はアカデミーのメンバーと関連機関に配布される特殊資料のため、市場に出てくることはほとんどない。しかし数はごくわずかだが、フランスの古書店に流れているものがいくつかあることが分かっていた。

そのほとんどは近年のものだが、できるだけケルヴランと農学アカデミーが接点をもっていた時代に近いものを探していた。そして最近になって1970年代前半の会議報告書のアソートを入手することができた。

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「郵便受けに入らないから」と手渡された包みから出てきた29冊の会議報告書を目にして、われながら「とうとう来るところまで来てしまったな。」という印象をもった。

これらの会議報告書は70年5月以降のもので、残念ながら「異端審問」や「デスター報告」の時期とはずれている。しかし、その中の一冊にはS・エニンがバランジェに対する反証実験として引用した「スービエ・ガデ論文」が収録されていた。これはすでにデータベースから入手し、翻訳を進めているものだが、やはりオリジナルで読めるというのは喜ばしいことである。

これらの膨大な会議報告書に目を通していると、まるで自分が農学アカデミーの図書館にいるような錯覚さえ覚える。そして、当時のアカデミーの内情が少しずつ明らかになっていった。

農学アカデミーの会議は毎週定例として今日まで行なわれている。そして、この会議報告書を出版する権限はアカデミーの終身幹事であるG・グリロにあった。

S・エニンが枢機卿であるなら、終身幹事のグリロはアカデミーの「教皇」である。彼は書記官が記録した会議の内容を精査し、編集して公表する裁量をもっている。グリロは発言こそしていないが「異端審問」の議論も傍聴しており、S・エニンの強い反対にもかかわらず、その会議内容を報告書に記載することを決定したようである。

そして当時の農学アカデミーの内部構成と各部会の構成メンバー、およびプロフィールの記載も見つかった。これまでの資料では会議で発言したメンバーの名前とその発言内容しかわからなかったが、今回の調査によって登場人物のプロフィールが詳しくわかったことは、各資料の翻訳をより完成度の高いものにする上で重要な情報といえるだろう。

これらの会議報告書を見て改めて思うのは、はたして「デスター報告」は本当に抹消されているのだろうかという疑問である。

「シーザーの獅子」の言葉には嘘はない。しかし彼がアカデミーのメンバーに選出されたのは1991年と比較的近年のことである。そのためゲゲンはツンデルがアカデミーに報告した論文についても知らなかったのである。その点については、いずれ再調査する必要があるかもしれない。

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2007/03/16

悪夢の宗教戦争

ヘルメス・トリスメギストスとは錬金術をつかさどる神である「三重に偉大なる」ヘルメスを崇める言葉とされている。なぜ「三重に偉大な」のかについては諸説あるらしいが、おそらく動物界・植物界・鉱物界の全てを統御するからという意味らしい。

ケルヴランも錬金術師の名に違わず、動物・植物・鉱物を使用した様々な実験を行なっている。それぞれの実験の内容は大きく異なっているが、その重要な共通点をひとつだけ上げるとすれば、彼の実験は全て閉鎖系におけるノン・ゼロ・バランスを提示したという点である。

ノン・ゼロ・バランス(フランス語ではビラン・ノン・ヌル)とはケルヴランの造語だが、直訳すれば「ゼロではない収支」となる。閉鎖系の環境で実験の前後において被験体とされた動植物の組成成分は、通常の場合分子レベルでの変化は生じるかもしれないが、原子レベルで変化することはない。すなわち照査標準ないし実験前の被験体と、実験後の被験体の収支はプラスマイナスゼロになるはずである。

ところが実験の前後で一つの元素が増加し、別の元素が減少している場合、その収支はゼロにはならない。これがノン・ゼロ・バランスの狭義の定義である。

ケルヴランはこのノン・ゼロ・バランスを元素転換が生じた結果であると考えた。そしてこのノン・ゼロ・バランスを実証し、そこから研究を深めることを数々の実験で提起したのである。

しかしこのノン・ゼロ・バランスが実験的に有意性をもつためにはいくつかの条件がある。まず実験手順や分析方法にエラーや誤差が存在しないことが立証されなくてはならない。つぎにその異常な収支の格差が被験体の個体差や擾乱によるものではないことを示さなくてはならない。そしてその実験データが充分な数の実験による統計的有意性をもち、なおかつ再現可能なものでなくてはならない。

フランス農学アカデミーとフリタージュ学派との数回にわたる攻防も、このノン・ゼロ・バランスをどのように評価するかという点が一つの争点であった。「枢機卿」S・エニンは当然ながらこのノン・ゼロ・バランスの弱点を的確に突いている。そしてレオン・ゲゲンに至っては「一匹のロブスターと別のロブスターの収支を比較して、どうしてそこにあつかましくも元素転換の存在を主張できるのか?実に馬鹿げている!」と激しい口調で私の質問に答えている。

元素転換など元々存在しないという立場のエニンやゲゲンにとって、ノン・ゼロ・バランスは単なる統計的エラーに過ぎない。そして仮にノン・ゼロ・バランスが容認されたとしても、それだけでフリタージュの実在の証明にはならないのである。そうなるともはや残された道は悪夢の宗教戦争である。問題はノン・ゼロ・バランスの実証ではなく、たがいの研究者としての資質に及ぶところとなる。

現代のわれわれから見ても、ノン・ゼロ・バランスに示される異常な収支だけでは元素転換の証明にはならない。その反応がどのような酵素によっていかなるプロセスを通じて生じているかが明らかにされなくてはならない。そしてオペロン説を持ち出すのであれば、その反応に関わるゲノム情報まで追究されるべきだろう。

しかしこのことは当時のケルヴランの厳しい研究環境を物語っているとも言える。彼を支持した生物学者はE・プリスニエやJ・ミネレなどごく少数だった。分子生物学者や遺伝子学者の支持を得られなかったケルヴランは、わずかな協力者とともにこのノン・ゼロ・バランスを追究する道しかなかったのである。

はたして彼が命題として示したノン・ゼロ・バランスは単なる統計的エラーだったのか、それとも元素転換反応の証拠だったのか。「三重に偉大なる」ヘルメスだけが知ることなのかもしれない。

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2007/03/12

生命のメタモルフォーゼ

ケルヴランより以前に元素転換に関する研究を行なっていた学者はフォン・ヘルツィーレなど数多くいるが、思想的系譜としてフリタージュを捉えるときにまず思い浮かぶのはR・シュタイナーである。

R・シュタイナーは日本でもシュタイナー教育などでかなり市民権を得てきたようにも思うが、バイオダイナミック農法やオイリュトミーなど、その思想的総体としての人智学はまだ正しく認知されていないように思う。そしてそのシュタイナーの背後にはもう一人の偉大な人物がいることを忘れてはならない。

不確定性原理で知られる物理学者のW・ハイゼンベルクが来日したときに、ゲーテの自然科学思想の重要性について講演を行なったと伝えられているが、日本ではゲーテといえば詩人であり文豪としての存在である。聴講者にはかなりの意識の乖離があったことだろう。ハイゼンベルクは物理学者というよりも思想家・哲学者としての印象が強いが、ゲーテの思想についての彼の捉え方もむしろ哲学的なものだったといえる。

シュタイナーの人智学は彼独自の思想体系ではあるが、そこにはゲーテの自然観からの一定の影響が感じられる。社会有機体三分節化説などはその典型であろう。

京都大学には「ゲーテ自然科学の集い」という団体があり、その機関紙の『モルフォロギア』には村上陽一郎氏が寄稿するなど当初は興味深いものがあったが、やがてそれぞれの学者がゲーテにかこつけた論考を公表するようになったので関心が薄れてしまった。

ゲーテの自然科学研究には間顎骨の発見やニュートンの光学に反対する彼独自の色彩論などがあるが、特に知られるのはメタモルフォーゼ論である。

ゲーテは特に植物の形態学的観察から「原植物」という根本現象が環境条件に応じて様々な形態にメタモルフォーゼするものと考えた。そして後にはこの考え方を動物や鉱物にまで広げ、根本現象としての「原動物」「原鉱物」という全にして一なる存在が変化して多様な種属を作り出すという世界観に発展していったのである。

そうしてみると、彼の最後にして最大の作品である『ファウスト』もこれまでとは全く違った捉えかたをすべきではないだろうか。

『ファウスト』は中世の錬金術師の伝説をモチーフにした戯曲とされているが、実はそうではない。天上の光を求めてやまないファウストと闇の世界に根を張りめぐらせるメフィストフェレスが、あたかもひとつの植物としてメタモルフォーゼを遂げていく物語なのである。それは人間の魂という根本現象が、矛盾を孕みながらもどのように世界に自己を開いていくかということが大きなテーマとされている。

この植物としての人間精神のメタモルフォーゼとして『ファウスト』を捉えるとき、そこにはあるいはフリタージュを予感させるものがあったのかもしれないとも考えられる。

錬金術師のフルカネルリは「すぐれた文学作品の中には錬金術の古い秘密が隠されている」という言葉を残している。現代の私たちはその言葉に何を学ぶべきなのだろうか。

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2007/03/05

疑似科学と擬似宗教

さてアカデミー関係の話はこのあたりで機を改めることにしよう。

少し前のことだが、どこのサイトかは忘れてしまったが、このブログを紹介してくれているところを目にしたことがある。紹介してくれるのはありがたいのだが、私の事を<「と」な人>と書いてあった。最初は何のことかよくわからなかったが、どうも「トンデモ科学系の人」という意味らしい。

なるほど、ケルヴランについては学者連中も含め、これまでいい加減なことを言う人間が多かった。そのため、その名前を見ただけでそのような疑似科学的な印象をもたれるようになったのだろう。

どのような捉え方をするのも個人の自由ではあるが、そのような先入観で物事を判断する人はケルヴランについていい加減なことを述べてきた連中と同じレベルと言えるだろう。つまるところ、彼らはケルヴランの著作も論文も読んだことがなく、彼が行なった実験の一つもまともに理解していない。そしてネット検索などで寄せ集めた噂話を自分の頭の物差しだけで判断しているわけである。

腕組みをして物事をながめ、頭の中だけで知識をこね回す人のことをディレッタント(懐手主義)というらしい。このネット検索全盛の時代、これからもそういう人種は増殖していくのだろう。

確かに私もパソコンを調査や仕事の道具として使っている。その恩恵も感じるところではあるが、これはあくまで道具であり、ただの端末に過ぎない。検索作業だけで新しい発見が得られるわけではない。私にしても調査して判明したことの全てを公表しているわけではないのである。

そうしてみると、近年疑似科学に対する風当たりが強くなっているが、ネット社会自体が擬似宗教化しているような印象を覚える。だからこそ多くの人々はそれに洗脳され、情報に盲従するようになっているのだろう。

科学というものがこの世界における共通認識をつちかう営みであるとするなら、宗教というものも、多面性はあるにしてもそれに矛盾するものではないと思われる。しかしながら、疑似科学に対する批判は比較的現れやすいが、擬似宗教に対しては根拠をもつ批判がなされにくい面がある。信教の自由が保障されているのだから、なおさらと言えるだろう。

魔女狩りではないが、疑似科学を糾弾する識者が根拠とする現代の科学技術にもある種の擬似宗教性が潜んでいることを私たちは見逃してはならないだろう。

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