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2007/02/26

新たなる刺客

S・エニンによって農学アカデミーに提出されたスービエ・ガデ論文を調べていると、思わぬ収穫があった。それはJ・E・ツンデルの論文である。

ツンデルが農学アカデミーに論文を提出していることは1975年の『微量エネルギー元素転換の生物学における証明』にも記されているので、以前から関心はもっていた。しかし分かっていることは1971年ということだけで、その年のいつの会議に提示されたのかは不明だった。

これはケルヴランの悪い癖だが、自分の知っていることは省略し、どうでもいいことは繰り返し書かれている場合がしばしばある。高齢のためなのか個人的性癖なのかはわからないが、おかげで翻訳も調査もなかなか手間がかかるのである。

だが、スービエ・ガデ論文の公表された会議にはノエルアンも出席しており、例によって枢機卿と論戦を交わしている。その中でノエルアンはツンデルの研究についても発言しており、この発言に基づいて調べていくと、ツンデルが論文を公表したのは71年の12月だということが判明した。そしてようやくツンデルの論文も入手することができたのである。

ここで改めて農学アカデミーとフリタージュ学派との関係を整理してみることにしよう。1969年1月のデスター報告はロブスターの第1実験を報告したものだが、各元素の定量収支に疑義が問われ、会議記録から抹消されている。次に1970年2月に行なわれたのがあの「異端審問」であり、アカデミー史上稀に見る激論が戦わされた。70年10月にはS・エニンによってL・ゲゲンの反証実験が紹介され、対立の構図が浮き彫りになってくる。

そして71年12月にフリタージュ学派は新たな刺客をアカデミーに送りこんだ。それは長年ケルヴランと連携していたツンデルによる発芽実験である。ところが、この会議には枢機卿は何らかの事情で出席しておらず、後にアカデミーの終身幹事あてに異例の書簡を提出している。当然それはツンデルの実験に異議を唱えるものだった。

残念ながらツンデルは枢機卿に剣をかざすことはできなかったわけだが、アカデミーの重鎮であるS・エニンが手をこまねいているわけはない。ツンデルの論文が公表された一か月後の1972年1月に、バランジェの研究を否定するスービエとガデの論文をアカデミーに提出しているのである。

ケルヴラン自身のストーリーとは少し離れることにはなるが、この農学アカデミーとフリタージュ学派の対立の観点から各資料を読み解いてみるのも興味深いかもしれない。

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2007/02/20

『微量エネルギー元素転換の地質学と物理学における証明』

しばらく絶版のままだった『微量エネルギー元素転換の地質学と物理学の証明』を2年ぶりに制作しようと考えている。

ケルヴランのこの著作の翻訳には、断続的ながら16年という時間が必要だった。そして翻訳が完成してからさらに2年間、もう一度最初から原文と訳文を照合する作業を行なっており、延べ18年かかった労作といえる。

そして2005年の5月に、それまで『生物学元素転換』をご購入いただいた方にかぎり限定頒布するという形式を取らせて頂いた。それは核子クラスターなどの基本的な概念を理解できていないと、この専門的な著作を読むことは困難であると判断したからである。そのために、あらかじめ著作の概要をお知らせするDMまでお送りした次第である。

これまで少しずつ改訂を進めてきたわけだが、さすがに2年間かけてオペをしただけに大きく変更するところはない。ただページ数が多いために若干の変更にも手間取る部分が多かった。本当はPDFかWORDにして業者に外注することを考えていたのだが、収録されている図表やグラフがあまりにも複雑で、全体的な作業を進める時間が取れなかった。そのため今回も私製本という形でご容赦願いたいと思う。

たとえば表紙に掲載されているメスバウアー・スペクトル分析のグラフなどがそうだが、これは原書に掲載されている図表の状態が宜しくなく、スキャンして修正をかければよいレベルではなかった。そのため、オリジナルのグラフにプロットされている十字のXY座標を計り、ドット単位の数値に換算して一つずつプロットしなおすという気の遠くなる作業を行なっている。このグラフを完成するのに4か月はかかっているだろう。

そしてこのグラフは実は75年の補足資料に掲載されているもので、73年の原書には収録されていない。このケルヴランの異常に専門的な研究を理解しやすいものにするために、特別に導入したものである。

本業がもう少し落ちついてきたら制作に取り組めると思うが、ページ数が多いので今回も30部程度しか制作できないと思う。そこで、確実に入手されたい方はメール等で早めにご予約されることをお勧めしたい。頒布価格は初版とほぼ同じ価格(6300円消費税・送料込み)を予定している。

なかなか専門的な著作なので無理にはお勧めできないが、ケルヴランが行なった独特な研究に挑戦する勇気と知性のある方にご高覧頂きたいと願っている。

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2007/02/13

アカデミーの弾圧

先週、久しぶりにBLDSCから資料が届いた。それはゲゲンの論考に引用されていたものだが、実に意外なものだった。

タイトルは不明だったが、例によって農学アカデミー関係のものだったので、見つかるようならとオーダーしておいたものだった。その論文はL・スービエとR・ガデという二人の研究者によるもので、「発芽作用における無機元素の収支」というあまり面白みのないタイトルだった。

しかしその内容を読んでみると、予想に反してケルヴランに対する反証実験ではなく、バランジェの発芽実験の検証に関するものであった。彼らは1961年にバランジェとコンタクトを取り、バランジェの実験手順どおりのものとさらに厳密な条件での実験を行なったらしい。

そして驚くべきことは、この論文を農学アカデミーに紹介したのが、あの「枢機卿」ステファーヌ・エニンであるということである。これはいったい何を意味しているのだろう?

1961年に行なわれた彼らの実験を、エニン教授は「異端審問」後の1972年に取り上げている。すでに錬金術師はアカデミーと袂を分かっていることは前回記したとおりである。少し調べてみたが、どうもこの間にH・ノエルアンがケルヴランと連携していたJ・E・ツンデルの研究を農学アカデミーに紹介したらしい。

このツンデルの論文については情報が少なく、いまだに存在は確認されていない。おそらくこれもケルヴランの場合と同様にかなり議論が白熱したのではないだろうか。そこで枢機卿はフリタージュ学派に対する弾圧として、彼らの反証実験を取り上げたように思われる。

ちなみにフランス農学アカデミーはセクション1からセクション10までの部会に分かれており、ノエルアンは第4部会、エニンは第5部会に属していた。ノエルアンは外部の研究者にも寛容で「開かれたアカデミー」を目指していたらしい。しかしS・エニンはアカデミーの権威を重んじることを優先しようとしていたようである。

この論文でもノエルアンとエニンは議論を重ねているが、ケルヴラン、バランジェ、ツンデルといったフリタージュ学派に対する農学アカデミーの扱いはアカデミー内部の対立をも反映していたともいえるだろう。そしてエニン亡き後、第5部会の会長を務めているのがあの「シーザーの獅子」である。

この資料は9ページほどの論文なので、翻訳自体は無理なくできると思うが、もう少しアカデミーにおける文脈が明確になれば論文集に組み込めるかもしれないと思う次第である。

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2007/02/06

錬金術師の反撃

1970年と言われて、皆さんは何を思い浮かべるだろう。フリタージュの歴史においてこの年は一つの大きな節目に当たる年であった。

錬金術師にとってそれは元素転換説を公表して10年目に当たる記念すべき年でもあったが、同時に最も激しい闘いの時代の幕開けだったともいえる。

前年末にフランス農学院にて連続講演を行なったケルヴランは、その余勢をかって70年2月の「異端審問」に臨んでいる。そこで激しい討論が行なわれたことはすでに述べたが、その後4月には『ニュー・サイエンティスト』に実験に対する批判記事が公表され、さらに10月にはL・ゲゲンの反証実験に依拠したエニン教授の反論、いわゆる「エニン報告」が農学アカデミーに提出されている。これに端を発したゲゲンとの論争はその後も錬金術師を苦しめることになるのである。

ケルヴランもこの時点で70歳を迎えようとしていた。普通の学者ならこれほどたび重なる批判を受ければ、おとなしくなりを潜め、静かな余生を選ぶことだろう。しかし彼は違っていた。

1971年、錬金術師は反撃にうって出ることになる。71年4月に「生命と活動」をスローガンとしてトゥールで開催された生物学的農法の総決起集会、いわゆるトゥール会議においてケルヴランは元素転換を検証する新たな実験について講演している。

そして6月にはフランス農学者協会(S.A.F.)の研究所で二つの異なるタイプの実験を実施し、各元素を原子吸光分析と炎光分析によって定量したデータを示している。さらにこの時期から、後の高圧プレス実験につながる協議を地質学者のG・シューベルと進めていたらしい。

三度にわたる農学アカデミーでの論争から、ケルヴランはそれが不毛な闘いであることを悟ったらしく、このあたりの実験は独立した論文としては公表されていない。「異端審問」のあと、彼は元素転換を学問的に認知させることをあきらめ、生物学的農法の指導者たちと歩みを同じくする道を選んだのである。

論文集の枠組みからは外れることにはなるが、このあたりの経緯についても調査を進め、補足していきたいと考えている。

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