新たなる刺客
S・エニンによって農学アカデミーに提出されたスービエ・ガデ論文を調べていると、思わぬ収穫があった。それはJ・E・ツンデルの論文である。
ツンデルが農学アカデミーに論文を提出していることは1975年の『微量エネルギー元素転換の生物学における証明』にも記されているので、以前から関心はもっていた。しかし分かっていることは1971年ということだけで、その年のいつの会議に提示されたのかは不明だった。
これはケルヴランの悪い癖だが、自分の知っていることは省略し、どうでもいいことは繰り返し書かれている場合がしばしばある。高齢のためなのか個人的性癖なのかはわからないが、おかげで翻訳も調査もなかなか手間がかかるのである。
だが、スービエ・ガデ論文の公表された会議にはノエルアンも出席しており、例によって枢機卿と論戦を交わしている。その中でノエルアンはツンデルの研究についても発言しており、この発言に基づいて調べていくと、ツンデルが論文を公表したのは71年の12月だということが判明した。そしてようやくツンデルの論文も入手することができたのである。
ここで改めて農学アカデミーとフリタージュ学派との関係を整理してみることにしよう。1969年1月のデスター報告はロブスターの第1実験を報告したものだが、各元素の定量収支に疑義が問われ、会議記録から抹消されている。次に1970年2月に行なわれたのがあの「異端審問」であり、アカデミー史上稀に見る激論が戦わされた。70年10月にはS・エニンによってL・ゲゲンの反証実験が紹介され、対立の構図が浮き彫りになってくる。
そして71年12月にフリタージュ学派は新たな刺客をアカデミーに送りこんだ。それは長年ケルヴランと連携していたツンデルによる発芽実験である。ところが、この会議には枢機卿は何らかの事情で出席しておらず、後にアカデミーの終身幹事あてに異例の書簡を提出している。当然それはツンデルの実験に異議を唱えるものだった。
残念ながらツンデルは枢機卿に剣をかざすことはできなかったわけだが、アカデミーの重鎮であるS・エニンが手をこまねいているわけはない。ツンデルの論文が公表された一か月後の1972年1月に、バランジェの研究を否定するスービエとガデの論文をアカデミーに提出しているのである。
ケルヴラン自身のストーリーとは少し離れることにはなるが、この農学アカデミーとフリタージュ学派の対立の観点から各資料を読み解いてみるのも興味深いかもしれない。
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