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2006/08/28

静かな決意

L・ゲゲンから二つ目の資料が郵送されてきた。それは1970年にフランス農学アカデミーで公表された彼の論文であり、その概要については本稿でも実験データとともに紹介したことがある。
しかし、実はその論文にはS・エニンによる5ページ余りの前文が付随していたのである。

この論文自体はゲゲンと知りあう前にBLDSCからすでに入手しており、そのときにも論文のタイトルの前にわずかな文章が記載されていたが、特にケルヴランや元素転換に関する言葉は見当たらなかったので、農学アカデミーの別の記事のものだと考えていた。
しかし私の送ったファイルを確認したゲゲンからそのような指摘を受けたので、もしS・エニンの前文があるのなら調べてほしいと頼んでおいた。
ゲゲンによると今はバカンスなので、アカデミーの図書館も9月末まで開かないという。図書館が開いたら確認してみると言ってくれていたが、幸いにもゲゲン個人の資料の中に残っていたので送ってくれたようである。

S・エニンはケルヴランがロブスターの実験をアカデミーに報告したときの「異端審問」に出席して議論を交わしている。私はこのエニンの働きかけによってゲゲンが反証実験を行ない、およそ半年後にその論文を上梓したものと考えていた。
しかしゲゲンに確認すると、自分の実験はあくまで自発的に行なったものであり、アカデミーのメンバーに影響を受けたものではないという。そしてS・エニンはケルヴランが講演を行なったフランス国立農学院(INA)の教授であり、当時ゲゲンはまだアカデミーの会員ではなかったため、エニンの介在によってその論文が公表されるに至ったのだというのである。

ちなみにケルヴランがINAで行なった講演は『農学における生物学的元素転換」という著作としてまとめられているが、その経緯についてゲゲンは1968年の5月革命がきっかけになっているという。この5月革命時にフランス全土でゼネストが起こり、INAの運営体制もその余波を受けて紛糾をきわめたらしい。そこで二人の学生がケルヴランの講演を企画して実現したのだという。
ちなみにゲゲンはこの二人の学生の名前まで正確に知っており、情報の信頼性は高いと思われる。INAはフランスの農芸技師を育成する教育機関であり、ゲゲンの所属するINRA(フランス国立農学研究所)とも一定の関係を保っているらしい。

ゲゲンは、ケルヴランに対しては相変わらず辛辣な言葉を述べているが、奇妙なことに私の論文集には関心が高く、できれば英語かフランス語でアブストラクトが読みたいとまで言ってきた。
しかし皮肉なことだが、ゲゲンとの交流を通じて私はこれまで考えていた論文集の構想を改めなくてはならないという思いに捕われつつあった。
いまは亡き錬金術師から受け継いだもの、そして年老いた式武官が私に託したものをまとめ上げ、彼らの闘いの真実を明らかにしようという決意が、私の中で静かに湧き上がってきたのである。

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2006/08/22

視えざる格闘

酷暑の季節、「シーザーの獅子」との視えざる格闘は続いていた。

ゲゲンはケルヴランの研究はすでに過去のものであると述べた。それに対し、私はヴィソツキー博士らの研究を上げ、彼の研究は今なお研究される価値があるものだと思うと伝えておいた。
しかし彼は私が上げるいずれの研究に対しても否定的な姿勢を崩さなかった。

もちろん私は錬金術師になりかわってゲゲンと論争するつもりは全くなかったが、論争当時の話にしても私が初めて耳にすることばかりだった。それはケルヴランがその著作や論文に決して記すことのなかったフリタージュの裏側の歴史とも呼べるものであった。

ゲゲンの語る内容については、これまで交わしたメールの内容を自由に使って構わないという許可を彼自身からもらっているが、この場で泡沫的にそれに触れることは差し控えるべきだろう。
ただし彼は、いまだにケルヴランに対しての敵対心を失ってはいなかったことを指摘しておきたい。
「・・ルイ・ケルヴランは非常に高慢で、反論する者を決して容赦しなかった。彼はつねに反論者を告発し、ときには侮蔑的な言葉によって激しく否定したのである・・。」
客観的に見て、こうしたゲゲンの言葉をそのまま受け取ることにも問題がある。ゲゲンもまた、ケルヴランとの4年にわたる論争の中で実に手厳しい言葉で彼を糾弾しているからである。

私の翻訳した『生物学的元素転換』を購入された方には、ケルヴランの1967年の論文を希望された方にお送りしているが、その中で彼はP・ラルボーの研究を引用している。実はこのラルボーはゲゲンの亡き友人であり、ケルヴランに自らの研究が利用されたことに立腹していたことをゲゲンは伝えている。
しかしケルヴランの『農学における元素転換』にはラルボーの研究の基づく写真が収録されており、ケルヴランが許可なくそのような写真を掲載したのかについては疑問が残る。この点についてゲゲンに尋ねてはみたが、写真の許諾については不明だがラルボーの研究にとって元素転換が不必要だったことに間違いはないという。

戦争体験者の話にはたしかに重みがある。歴史教科書にはない迫真性に満ちた物語がそこには存在する。
しかし、それだけであの時代におこった全てを知ったつもりになってはならないだろう。
ましてやゲゲンはフリタージュに対する絶対的な否定論者である。私はその歴史を検証する客観性を保ちつつ、彼の言葉の背後に眠るものを呼び覚まさなくてはならないと感じたのであった。

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2006/08/11

シーザーの獅子

INRAの名誉研究部長、レオン・ゲゲンから送られた3部の資料はいずれも初見のものだった。
一つは『アグリカルテュエ』という専門誌に掲載された「農業に生物学的元素転換は必要か?」という記事だが、これは『レゾ・プレザンテ』に引用されていたものと符合する。残る二つは当時のINRAの内部資料とも呼べるものであり、こうした資料はフランスの古書店でもまず出てこない。その中にはゲゲンの見解に対するケルヴランの反論と、それに対するゲゲンの応酬まで掲載されている。

これらの資料のお礼として、私はこれまでに収集した資料のファイルをゲゲンに送っておいた。それについて彼には特に知らせていなかったが、ファイルを見ればゲゲンにはその意味がわかるはずだと思ったからである。それはかつての彼の闘いの歴史そのものだからである。

そのファイルを送った意味はもう一つある。それはゲゲンと資料を共有することによってこれまでの論争に関する議論を深めるという目的があった。
はたしてそのファイルに目を通したゲゲンはそれについてのメールを送ってきた。いつものごとく最初は論理的な内容だったが、やがてケルヴランとの論争が彼の中の「シーザーの獅子」を呼び覚ましたらしい。かなり激しく口調でケルヴランの研究を否定した経緯を語り始めた。

私がフランス語を理解することができることを知ってからというもの、ゲゲンはフランス語でメールを書くようになっていた。おかげでメールのやりとりがかなり煩雑になっていたが、この内容を読んで私はなぜか奇妙な喜びを感じていた。この人物はまさしくケルヴランと闘った男に違いないという確信が持てたからである。そして往年の式部官としての気骨をも感じさせるものがそこにあった。

ゲゲンの送ってくれた資料には13項目にわたるケルヴランの元素転換への「反証」が上げられている。それを見ても彼がケルヴランの初期の著作から当時の最新作まで十分に調べ上げていることがよくわかる。まさに彼は錬金術師の好敵手だったのである。

そして彼は、私が知らせたヴィソツキー博士の研究やホレマン博士のサイトについても長い返信メールを送ってくれている。いずれ彼の見解は、その闘いの真実とともに伝えなくてはならないだろう。

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2006/08/01

錬金術師と式部官

「生きていたか、ゲゲン・・。」その名をとなえ、しばし瞑目する。
本来なら互いの存在を知ることもなく、全ては暗黙のうちに終わりを迎えるはずだった。
それが、ふとした偶然からありえない出会いが訪れたわけである。

すでに齢を重ねたゲゲンにフリタージュの刃を向けるつもりは毛頭ない。あの闘いはすでに過去のことだ。
だが私には伝えなければならないことがある。かつて彼が闘った錬金術師が何を残したのか、そしてそれがいま、どのように受け継がれているのかを。

何度かメールを交わしているうちに、なぜ彼がケルヴランに闘いを挑んだのかその動機も見えてきた。当時興隆していた生物学的農法についてゲゲンは栄養学者の立場から一つの危惧を抱いていたのである。
ケルヴランが農業者を煽動した錬金術師なら、ゲゲンは科学の王権を守護する式部官である。彼らはともに同じ目的のために刃を交えた。すなわち、誤った搾取的農業から大地の荒廃を守るためにである。

ゲゲンはケルヴランの理論に依存する農業家たちの盲目的な姿勢に強い危機感を抱いていた。それは土壌の栄養学を軽視し、小手先の技術にすがろうとする信者の群れのように見えたのである。そして彼は『レゾ・プレザンテ』、『ラ・リシェルシェ』、『アグリカルテュエ』、『ラ・フランス・アグリコル』といった専門誌、さらにはINRAの会報に舞台を移してケルヴランと論戦を交えたのである。

実は同じ目的のために闘った両者ではあるが、もはやケルヴランとゲゲンが握手することはありえない。
それでは、この出会いが錬金術師の導きならその真意はどこにあるのだろう? 私はそのことをずっと考えていた。

もしゲゲンにとってあの論争がすでに終結しているなら、もはやケルヴランについては語るにあたわずである。そして私のメールに対しても歯牙にもかけなかったであろう。
しかし彼は私のメールに答え、当時の資料を送付してくれた。そしてその資料には次のようなメッセージカードが添えられていた。
"With my compliment and best wishes. Leon Gueguen"
あの論争は、もしかすると長年にわたって彼の中で一つのしこりとして残っていたのかもしれない。そしてもしこの出会いに意味があるなら、それは彼の中での闘いを本当の意味に終わらせるということではないだろうか。それが私に課せられた役割なのかもしれない。

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