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2006/06/26

一酸化炭素中毒のケース

核子クラスターの異性化反応の可能性について少し検討してみたが、ケルヴラン自身がそのような記述を残しているところはこれまでのところ見出されていない。しかし、当然様々な酵素反応については知っていたと考えられるので、そのような考えを抱いていた可能性もある。

そのような関連としてケルヴラン自身の研究の中で少し気になるのは、一酸化炭素中毒における元素転換である。これは高熱によって活性化された窒素分子が体内で一酸化炭素に変化するというもので、元素転換の代表的な反応例としてしばしば取り上げられる。

しかしこの反応を実験的に検証することはなかなか難しい問題である。『ルジネ・ヌーヴェル』という当時の産業誌に掲載された論文においてケルヴランは、溶接作業員の一酸化炭素の血中濃度を公表している。そして中毒死した作業員の検死では亜酸化窒素中毒ではなかったとされているが、その他の窒素酸化物による影響は全くなかったのだろうか?

またこうした溶接作業にはアセチレンバーナーが使用されているが、アセチレンは炭化水素化合物の一種で3000℃以上の高熱をたやすく得られる特徴をもっている。アセチレンの分子はH-C-C-Hという構造だが、二つの炭素同士は三重結合をしている。そして面白いことに窒素分子も三重結合をしているのである。

有機化学の分野ではアセチレン誘導体が白金やパラジウムと接触還元反応を示すことはよく知られている。窒素分子が鉄を触媒として一酸化炭素分子に転換するというケルヴランの見解は、もしかするとこうした反応に想を得たものかもしれない。

ともあれ、窒素が一酸化炭素に転換するためには分子内部で水素ではなく重水素が移動する必要がある。これはフリタージュの体系の中でも特異な反応といえるものである。その意味では窒素とアセチレンの奇妙な類似性に着目して再検討を試みることも悪くはないだろう。

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2006/06/20

核子クラスターの異性化反応

前回は異性体について記したが、最近の新聞にサリドマイドのことが載っていた。
サリドマイドは優れた催眠作用をもつため、かつては睡眠薬として使用されたらしい。しかしそれを服用した妊婦が奇形胎児を出産するという薬禍をもたらし、全面的に使用が禁止された経緯がある。
ところが近年になってサリドマイドがガンやエイズ、ハンセン病などに顕著な薬効があることが判明し、国内の医師が個人的に輸入して処方する動きがあるらしい。

実はサリドマイドにも二つの異性体が存在する。片方の異性体Aはそのような優れた薬理作用をもたらし、もう一方の異性体Bは催奇形性を引き起こすものらしい。そして異性体Aだけを抽出投与しても、体内で一部が異性体Bに変化するという恐るべき代物である。詳しく調べてはいないが、おそらくこれは体内の異性化酵素の作用によるものだろう。クエン酸回路などにもこうした異性化酵素が関与しているらしい。

酵素について少し知識のある人ならヘモグロビンのような酸化還元酵素だけではなく、こうした異性化酵素や転移酵素の存在を知っているだろう。そしてフリタージュ理論に照らしてみるなら、核子クラスターの結合・分離だけではなく、これらの酵素による別の反応も考えられるのではないだろうか?すなわち、核子クラスター構造の異性化反応の存在である。

これは現段階ではあくまで私個人の仮説にすぎないが、そのような反応の可能性は十分ありうると考えられる。たとえばキエフ・グループのナトリウムと燐から鉄54を生成する反応には従来のフリタージュ理論を当てはめることができない。しかしナトリウムと燐の格差となるアルファ粒子が、この反応においてあたかも電子対のような役割を果たしている可能性はないだろうか?そしてそれを媒介として、核子クラスター構造の異性化反応が生じているのではないだろうか?

その他にもフェイレ博士がフォートヒルの実験で得た不明確な放射率の変動など、従来の元素転換では説明しがたい現象もこの核子クラスター構造の異性化反応という概念を導入すれば、ある種の見通しはつくのではないだろうか?そしてこの考え方は、これまでのフリタージュ研究で見逃されてきた様々な現象を解釈の俎上に上げる鍵となるかもしれないのである。

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2006/06/12

鏡の中のフリタージュ

L・ゲゲンが発芽実験によって元素転換の実在を否定しようと試みたのに対し、植物生理学者のR・エレは特にエネルギーの収支の点からその不可能性を論証しようとしている。その詳細についてはいずれ稿を改めたいと思うが、エレはケルヴランのある主張について指摘を行なっている。それは有機分子の光学異性体についてである。

光学異性体とは分子式は同じだがその構造が異なるもののうち、鏡像関係にあるものをさす。たとえばアミノ酸などを人工的に合成した場合にはL体とD体という二種類の光学異性体が同じ割合いで生成される。このL体とD体は化学的性質は全く同一だが、生物を構成しているのはなぜかL体だけであり、D体のアミノ酸は不純物にすぎないという。
ケルヴランは生理学者としてこのような異性体の生物学的意義を熟知しており、「人工的な分子の合成は偶然の法則に支配されている。それに対して生物の分子は偶然の産物ではありえない。」と述べている。

エレ教授はこの言葉は正しいと認めながらも、それを元素転換の論拠に結びつけることには抵抗感を示している。しかしケルヴランが化学肥料を用いる農法を否定し、生物学的農耕法の支持にまわったのはこのような観点に基づくものに違いない。

実際、酵素レベルでのフリタージュを考えるとき、このような異性体による制約を受けることは十分考えられることである。たとえば私たちはデンプンをアミラーゼなどの酵素によって消化しているが、デンプンの立体異性体であるセルロースを消化することはできない。デンプンもセルロースもグルコース(ブドウ糖)から構成されており分子構造もよく似ているのだが、セルロースを体内でグルコースまで分解することはできないのである。

生物がなぜL体の有機分子だけから構成されているのか、その理由はいまだに解明されていないようだが、もしかするとDNAにそのような情報が記されているのかもしれない。しかしそのDNAにも通常の右巻きの螺旋ではなく左巻きの螺旋構造をもつZ-DNAというものがあるという。このZ-DNAは大腸菌などに存在しているが、その生物学的意義についてはいまだ定かではないらしい。

元素転換というと無機元素の反応としてイメージされるきらいがあるかもしれないが、ジェルヴィー論文でケルヴランが述べているように有機分子に対する反応としての法則性も無視できない。もしZ-DNAを含む幹細胞を培養したり、D体のアミノ酸だけで構成される生物が存在するとすれば、そこにおける生体反応にはパリティー保存の法則のようなものが成り立つのだろうか?
そしてこのような分子構造を映し出す鏡の中には、フリタージュの意外な姿が浮かび上がってくるかもしれないのである。

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2006/06/05

ケルヴランVSゲゲン

さて、このゲゲンの実験に対してケルヴランは、『レゾ・プレザンテ』においてかなり感情を抑えた批判を行なっている。

まず第一点として、ゲゲンの提示したエヴィアン水におけるミネラルの溶存率と含有量の数値におかしいところがあることを指摘している。それらをもとに水の容量を計算するとくいちがう点が見られるというのである。

またゲゲンの提示している種子のロットの重量は平均的な数値と大幅にずれており、厳密な定量がなされたものとは考えられないと述べて、実験の正確さに疑問を呈している。

これに対しゲゲンは、溶存率と含有量の数値による計算が一致しないのは、エニン報告では小数点以下を四捨五入したためであると反論している。また種子の重量が異なるのは、品種の違いによるものだと一蹴している。

たしかにゲゲンの示している小数付きの数値を計算すると第一点の矛盾は解消される。だがエニン報告の中でゲゲンは、この発芽実験はケルヴランが示しているプロトコル(実験手順)に厳密に従っていると述べている。ところが、ケルヴランがラージ・ブロンドという品種を使用したのに対し、ゲゲンはヴェルテ・ド・ピュイという全く異なる品種を使用しているのである。

植物の品種が異なれば全く異なる反応が生じる可能性があることは、ケルヴランの著作を読んで実験を行なったゲゲンにはわかっていたはずである。そして腑に落ちないのは、ケルヴランはロブスターと水槽の水を含めた系全体を実験の前後に定量しているのに、発芽後のエヴィアン水の組成分析をゲゲンは提示していないのである。

こうした点からみてもゲゲンの実験が意図するところは明らかなように思われる。だいたいケルヴランが農学アカデミーに報告した実験はロブスターなどを使用した動物実験であり、植物を用いた実験はアカデミーでは論じられていなかった。

ちなみにロブスターの実験に使用された海水は、その生育のために緩衝液を使わずに濃度やペーハーが調整されており、そのため6か月もかかったという。その結果を同じ実験によって反証するのであるならまだしも、ゲゲンはケルヴランの過去の著作からもっとも追試しやすい発芽実験をわざわざ選んでいる。

もちろんゲゲンにしてみれば、いかなる実験でいかなる結果が得られようと元素転換の存在を認めるつもりはなかったに違いない。そのような実験者がどのようにでもなる統計データを根拠として論じ立てたとしても完全な説得力があるとはいえないだろう。

問題は統計的データの一致・不一致ではなく、そこからいかに問いを深めていくのかという問題意識にある。ケルヴランの提示したプロトコルはそのための命題なのであり、研究を深化させるためのプロセスに過ぎない。その段階で否定のための否定に走ったゲゲンは振りかざした剣をかわされた形になったようである。

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