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2006/02/24

『生命の暗号』

先日『生命の暗号』という本を買った。これは筑波大学名誉教授の村上和雄氏の著作である。村上氏はテレビ出演もされたそうだが、あいにく私は見ていない。最初に書店で立ち読みしたときには、オペロン説についての記述もあったので少し関心はもったと言える。しかし私はこの手の本はほとんど読まない人間である。

学者の書く本というのはだいたいスタンスが知れている。それなりの研究もしており知識もあるので説得力もある。また学生への講義もしてきているので話の組み立ても筋が通っている。しかし、彼らがその専門分野の窓から社会をのぞいてものを書くとき、どうしようもない見識の狭量さが目につくのである。脳の研究をしている人間はすべて脳内現象から、遺伝子の研究をしている者は全てが遺伝子の作用に基づいての話である。それにあいにくと私は翻訳で忙しい。日本の研究者のよた話に付き合っている暇はないのである。

しかしこの本は何度か本屋で立ち読みをする機会があった。4度目に立ち読みしたとき、この著者がレニンという酵素のゲノム情報を解読していることを知った。レニンは腎臓に含まれる酵素で、いくつかのホルモンと関連して血圧上昇のプロセスに関与している。そしてそのホルモンの一つに、ケルヴランが元素転換との関連を指摘したアルドステロンがある。フリタージュとの直接の関連性はないにしても、レニンの研究者なら話は聞いてみてもいいだろう。そう考えて読むことにしたのである。

そしてほぼ大半を読み終えたところだが、なかなか読ませる文章であり、内容的にもおもしろい。知っていることも多かったが、啓発されるような記述も含まれていた。

やはり遺伝子の話がメインではあるが、その機能発現には人間の精神活動も大きく関わっているのではないかという言説はうなづけるものがある。ただ、全てがそうではないことはフリタージュの観点からも明らかではある。私たちが意識レベルで遺伝子のスイッチを自由にON・OFFできるようになれれば、ある意味で遺伝子治療などの必要性はなくなるわけである。

たしかに遺伝子工学からはこれまでにない新薬の開発などの可能性もあり、有用な技術ではあるが、その一方で全てをコントロールできない現状では、安易な未来像を描くことはできないだろう。村上氏もレニンの作用にはまだ未解明の部分があり、それが高血圧とどのように関連しているかはゲノム情報が明らかになったいまなお研究中であるという。

私としてはそこに元素転換の可能性を追究してもらいたいところではあるが、日本の研究者にその枠を超えた仕事をしろといっても無理な話だと考える次第である。

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2006/02/17

論文集のスタイル

いろいろとせぎわしい状況もあるが、少しずつ66Librの制作を進めており、他の資料の翻訳も続けている。実のところブログを書いている状況ではないのだが。。

ケルヴランの論文集の制作をめざしてそのような活動を続けているわけだが、以前はそのような考えはもっていなかった。すでに著作を全て揃えていたので、あえて論文を収集する必要はないだろうと考えていたのである。

ほとんどの科学者が著作を執筆するとき、全くの書下ろしということはないはずである。それまでに公表した論文などをある程度まとめて著作に仕上げるというやり方が一般的である。その意味ではケルヴランの著作もそうなのだが、実際に入手してみると様々なことがわかってきた。

たとえば一酸化炭素中毒に関する論文では継続的に工員の血液検査を行なっているが、著作ではそのような具体的データはほとんど出されていない。あまりに膨大な量になるからである。そのあたりを踏まえて、著作での記述は概括的にならざるをえなかった部分があったようだ。そういう意味で包括的な資料として論文集を制作することは、問題の本質を探り出す意味でも重要だと考えたわけである。

しかしながらその全体像はいまだに具体的な形にはなっていない。オランダ語の論文やジェルヴィー論文など、論文として扱いにくいものも多いからである。ケルヴランの著作には様々な要素が混在している。ケルヴラン自身が実験的に確認したものやそこから推測される反応経路についての仮説、あるいは他の研究者のものなどが絡みあって、その独特な文章とともに複雑な構成になっている。

今後は各論文の翻訳とともに、そのあたりのバックグラウンドを明確にして研究の文脈を読み取りやすいものにしていくことも課題になってくるだろう。

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2006/02/10

王権神授説

先日ある方からメールを頂いた。その方も生物学的元素転換に関心を抱いていて、私のHPをご覧になって感銘を受けたという。しかしその反面、HPの各タイトルは内容がわかりにくく、またケルヴランの研究を祭り上げてカリスマになろうとしているような印象を受けたと伝えられた。

これを読んで私は苦笑せざるを得なかった。カリスマと呼ばれるならそれでも構わないが、少なくともケルヴランを祭り上げているつもりはない。

世間でどのように見られているのかはわからないが、自分ではケルヴランの翻訳家ではなくフリタージュの研究家だと思っている。ただフリタージュ研究はケルヴランを抜きにしては語れないし、元素転換を座標軸として他の人々の研究をプロットしていく方が統一的に理解しやすいのでそうしているだけの話である。

またケルヴランを権威主義的に利用しているようなことを言われていたが、それはケルヴランの著作も論文も読んだこともないのに、さも知っているような言葉を弄する巷の人々に言ってもらいたいものである。ケルヴランに関する資料は限られているので、そういう人の書いた文章を私が読むと、何を読んでいて何を読んでいないかはすぐに見当がつく。

しかし裸の王様は衣装をまとわないが王冠だけは頭からはずしたくないらしい。そういう人を責めるのも少し無粋なことである。そっと一人にしてあげようではないか。

HPの各タイトルを変えようともその内容が理解しやすくなるわけでもないだろう。結局その方の言っていることは表面的なことばかりで、HPの内容やケルヴランの研究に関する本質的な質問が全く無かったことは残念である。

ご覧になった方が様々な印象をもたれるのは当然のことだが、たとえケルヴランに関心をお持ちの方でも、この朽ちた神殿の内陣に足を踏み入れることができるのは、限られたごくわずかな人だけなのかもしれない。

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2006/02/03

フリタージュ活動の原点(9)

『生物学的元素転換』の英語版はかなり原書に忠実に翻訳されている。しかしケルヴランのフランス語自体いくぶん古い用法で、さらに元素転換のメカニズムを解説するために独自の造語を使っている個所も多い。

たとえばその一つに「ノン・ゼロ・バランス」という言葉がある。フランス語では「ノン・ヌル・ブラン」であるが、これは動植物における代謝収支が元素転換によって相殺される関係にあることを示す言葉である。私はこれを「非定常収支」という言葉に訳している。そんな感じで言葉一つの翻訳にも苦労して進めてきたわけだが、2003年を迎える頃にはようやく完成のめどが立つようになった。そしてその春にプロトタイプを作ってみようと考えた。

こうして2003年5月に5冊だけプロトタイプをコピーで作ってみた。まずまずの仕上がりではあったがやはり私製本である。市販されている書籍とは比べるべくもなかった。そこでいくつかの出版社に話を持っていったのだが、あまり良い返事は得られなかった。

出版者にもそれぞれのカラーというものがあり、売れる本しか作りたくないというのが本音だろう。特にケルヴランの本はジャンル的に分類するのが難しい著作でもある。内容的には十分読み応えがあると考えてはいたが、自費出版を勧められるのが落ちだった。

そこで出版社から刊行することはいったんあきらめ、インターネットでケルヴランに関心をもっている人がまだ21世紀にいるのかどうかを探してみることにした。そして何人かの人にはメールで連絡をとって、新しくできた翻訳書を紹介して購入して頂いた。

インターネットで調べていくと、中にはケルヴランの著作を読んでもいないのに、さも読んでいるようなことを書いている人もいた。そしてそういう人に限って私の翻訳書も読もうとしないのである。面白いことではあるが、裸の王様というものは決して差し出された衣装を身にまとおうとはしないものらしい。

私が一番おそれている事は、そういう人の妄言によってケルヴランをよく知らない人が誤解してその研究をとらえる可能性があることである。最初はそれを正そうと考えていたのだが、真実を求める心をもつ人はいずれここにたどり着くだろうと信じることにした。

こうしてプロトタイプ制作のあとに、さらに新しい形で私製本を作るようになって現在に至っているわけだが、これもご注文頂いた多くの方々の支えがあってこそと思う次第である。そしてこれからも私はそういう人々の期待を裏切るようなことは決してできないと思う。

フリタージュ研究の道はきびしい。導いてくれる人もなく、いまなお地道な努力を続ける日々ではある。しかし私は行けるところまで行き、この道を極めようと思っている。かつてひとりで歩きはじめたときと同じように、その思い、決意には何ら変わるところはない。

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