フリタージュ活動の原点(7)
大学時代のフランス語の辞書とテキストを引っ張り出して73Librの翻訳を開始したわけだが、その冒頭の文章はいまだに難解に思える。著作や論文もかなり集まった現在ならいざしらず、ケルヴランに関する資料も限られていた当時の私が正確に翻訳することは至難の業だった。しかし私はこの未開の領域に足を踏み入れた。そしてもう後戻りはできない。そんな覚悟で日々仕事をこなしながら難解な翻訳を進めていった。
だが仕事に疲れて帰ってきたあとに翻訳をするのは辛い面もあった。そこで一日に最低一行は訳すように決め、休日に遅れを取り戻すようにしたり、わからない部分は図書館で専門用語を調べたりした。ご存じのように休日の図書館は人で一杯である。座る席もないときには一日中立ちっぱなしでいろんな辞書を調べてまわったが、それでも成果の上がらないときもあった。
そして仕事も大変な部分があった。教材会社というとほとんどの人はスマートなデスクワークを想像するかもしれない。知的で安泰な職業のように思われるだろう。しかし実際は80%以上が肉体労働だった。もちろんワープロや校正などのデスクワークもあったが、その会社では印刷会社への外注商品だけではなく、自社製作のテキスト類も作っていた。コピー機や印刷機、紙の裁断機や製本機など一日中機械に使われるような労働が続いていた。若い時期だからできた仕事ともいえる。
他にもDMの制作や発送、学校への会場テストの配送など数え切れないほど様々な業務があった。また変わったところでいえば、入試問題を公表しない学校が試験当日に構内に掲示するテスト問題を撮影してくるという仕事もあった。他の業者や父兄が押しあう中でテスト問題を撮影してくるのだが、変な奴に怒鳴られたり、帰りには車の接触事故にあったりと散々な仕事だった。
この会社には9年間勤めたわけだが、印刷物の校正や製本などの業務経験ははからずも翻訳書の制作に役立っている。その意味では良い経験だったとも言えるのだが、一方では印刷業界に対するトラウマもできてしまった。私が完璧に行なった校正を印刷業者が全く異なる修正を行なったり、納期が短いということで断ったりしてきたのである。
教材の原稿を作る人間の仕事が遅いためにこちらも厳しい時間の中で仕事を仕上げているのに、それを外注業者が全く無視して商品を作ったため、社内ではまるで私たちの部署の仕事がなってないような偏見をもたれることになった。印刷業界の人間は低劣で信用できないという印象は今も残っている。このような経験があるため私の翻訳書は人任せにしたくないのである。
こうした厳しい業務の中でもケルヴランの翻訳を続けていったわけだが、やがて一日中機械に酷使される仕事は体力的にきつくなってきた。どうも真面目でおとなしい人間というのは会社にとっては都合よく使える奴隷のようなものなのだろう。長年の勤労に関わらず、待遇についてもアルバイトとさほど変わらないようなあしらいに思えた。そろそろ区切りをつけるべき時が来たように思われたのは30歳を少し過ぎた頃のことである。
| 固定リンク
コメント