« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »

2006/01/26

フリタージュ活動の原点(8)

不規則な生活と過酷な仕事を続けるうちに、いつしか奇妙な症状が体に出はじめていた。運転をしたり少しコーヒーを飲むだけで目が充血したり、膝がしびれたように痛むようになった。病院で診察を受けたりしても何ら異常はないとのことだった。しかしその症状は確実に体を苛むようになっていった。特に膝の痛みはまともに立ち歩きができないほどになっていった。

いま振り返ってみても、あまりフリタージュ活動に関係することではないので省略すべきところだが、結局そのような次第で仕事を転職することを考えた。しかしここからがまた苦難のはじまりで、いくつかの職を転々としたのだが結局自分で仕事をすることに決めたのである。

すでに父親の会社もなかったのだが保険関係での顧客が続いていたので、まずは保険代理店の資格を二つ取得した。これが今の朔明社の原点である。そして会社勤めをしていた頃に、ある知人が健康食品を開発するというのでわずかながら開発資金を出資協力した。その経緯で代理店の資格を頂いたこともあり、基本的に朔明社は多種多様な代理店業というスタイルで今日に至っている。

ところで最近ではネットワーク・ビジネスやアフィリエイトなどが盛んである。私もそういうビジネスに誘われたりするのだが、どうも気持ちが乗らない。お金儲けは悪いことではないと思うし、まとまったお金が入ればケルヴランの翻訳書をもっと良いものにできると思うのだが、いま一つしっくり来ないのである。もっとも私がお金に目を血走らせる守銭奴であればケルヴランの翻訳などしていないだろう。翻訳書を完成させる作業を時給で考えると、あまりにも非効率な仕事といえるからだ。

ともかくもこうして自分の牙城を築いたわけだが、そんな中でケルヴランの翻訳は66Librも73Librもかなり滞っていた。そして改めてこれまでに翻訳した原稿を見直してみて、やはり完成させるのであれば基本的な著作である66Librを優先すべきではないかと考えるようになった。

もはや会社の人間関係などのしがらみもない。これからは自分自身といかに向きあうかである。ケルヴランの翻訳を完成させることをようやく本格的に考えたのはこの頃だった。それは世俗をたちきった者でなければ決して実現することのできない、大いなる闇の中での開悟であったといえるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/19

フリタージュ活動の原点(7)

大学時代のフランス語の辞書とテキストを引っ張り出して73Librの翻訳を開始したわけだが、その冒頭の文章はいまだに難解に思える。著作や論文もかなり集まった現在ならいざしらず、ケルヴランに関する資料も限られていた当時の私が正確に翻訳することは至難の業だった。しかし私はこの未開の領域に足を踏み入れた。そしてもう後戻りはできない。そんな覚悟で日々仕事をこなしながら難解な翻訳を進めていった。

だが仕事に疲れて帰ってきたあとに翻訳をするのは辛い面もあった。そこで一日に最低一行は訳すように決め、休日に遅れを取り戻すようにしたり、わからない部分は図書館で専門用語を調べたりした。ご存じのように休日の図書館は人で一杯である。座る席もないときには一日中立ちっぱなしでいろんな辞書を調べてまわったが、それでも成果の上がらないときもあった。

そして仕事も大変な部分があった。教材会社というとほとんどの人はスマートなデスクワークを想像するかもしれない。知的で安泰な職業のように思われるだろう。しかし実際は80%以上が肉体労働だった。もちろんワープロや校正などのデスクワークもあったが、その会社では印刷会社への外注商品だけではなく、自社製作のテキスト類も作っていた。コピー機や印刷機、紙の裁断機や製本機など一日中機械に使われるような労働が続いていた。若い時期だからできた仕事ともいえる。

他にもDMの制作や発送、学校への会場テストの配送など数え切れないほど様々な業務があった。また変わったところでいえば、入試問題を公表しない学校が試験当日に構内に掲示するテスト問題を撮影してくるという仕事もあった。他の業者や父兄が押しあう中でテスト問題を撮影してくるのだが、変な奴に怒鳴られたり、帰りには車の接触事故にあったりと散々な仕事だった。

この会社には9年間勤めたわけだが、印刷物の校正や製本などの業務経験ははからずも翻訳書の制作に役立っている。その意味では良い経験だったとも言えるのだが、一方では印刷業界に対するトラウマもできてしまった。私が完璧に行なった校正を印刷業者が全く異なる修正を行なったり、納期が短いということで断ったりしてきたのである。

教材の原稿を作る人間の仕事が遅いためにこちらも厳しい時間の中で仕事を仕上げているのに、それを外注業者が全く無視して商品を作ったため、社内ではまるで私たちの部署の仕事がなってないような偏見をもたれることになった。印刷業界の人間は低劣で信用できないという印象は今も残っている。このような経験があるため私の翻訳書は人任せにしたくないのである。

こうした厳しい業務の中でもケルヴランの翻訳を続けていったわけだが、やがて一日中機械に酷使される仕事は体力的にきつくなってきた。どうも真面目でおとなしい人間というのは会社にとっては都合よく使える奴隷のようなものなのだろう。長年の勤労に関わらず、待遇についてもアルバイトとさほど変わらないようなあしらいに思えた。そろそろ区切りをつけるべき時が来たように思われたのは30歳を少し過ぎた頃のことである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/11

フリタージュ活動の原点(6)

一か月ほどの入院生活を終えた私は、まだ痛む足を引きずりながら事故に巻き込まれた自分の自動車を見にいった。フロントガラスは砕け、車体はみごとに九の字に曲がっていた。はた目から見ても運転していた人間が五体満足とは思えない惨状だった。

しかしほんのわずかなタイミングのずれと不思議な偶然によって、私は九死に一生を得た。たしか24才頃のことだったが、もしかするとそこで私の命数は尽きていたのかもしれない。あるいは何か大きな力が私を救ってくれたのかもしれないと思うこともあるが、それが何なのかはいまだにわからない。

こうして仕事に復帰した私だったが、皮肉なことにケルヴランの翻訳は入院生活を通じて実にはかどっていた。現実生活につまずいた時というのは己自身を見つめ直す契機ともいえる。ケルヴランの翻訳はその意味で一つの内観に通じるものがあったのかもしれない。しかし九死に一生を得たから一念発起したというわけではない。翻訳を続けながらも私はいまだにケルヴランに疑念を抱いていた。いずれ明らかな矛盾点が出てきて、この翻訳は無意味になってしまうのかもしれないという思いが常にあった。私がやることはそのように全て行き止まりになるのではないかという不安が消えなかった。

そこで66Librの翻訳は順調だったが、それまで入手していた後期の著作とあわせてどれを読んでいくべきかを改めて検討するようになった。もしあのような事故で命を落とすようなことになっても後悔しない道を私は模索していた。

普通に考えると、最後の著作である82Librを翻訳すれば研究の全貌が把握できると思われるだろう。しかし目次を翻訳してみると、82Librには非常に厳密な指向性があることがわかる。そして当時の私にはそれをクリアする能力はなかった。フリタージュ理論の基本概念を把握していなかったからである。いろいろと検討してみたが、やはり専門であった地質学に関連する73Librの翻訳に着手しようと考えるようになった。75Librは生物学に関するものだが、これも当時の私には荷が重い著作だったのである。

こうして66Librの翻訳をいったん中断した私は73Librの翻訳を開始することにした。それは一つの曲がり角ではあったが、このことは66Librの完成を遅らせることにもつながった。しかし何が正しい道なのか誰も教えてはくれない。たとえそれが行き止まりでも行ける所まで行くだけだ。そう決意した私は、もはや道に迷うおそれを捨てて再び歩き出したのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/05

フリタージュ活動の原点(5)

地元の教材会社に就職して精神的な落ち着きも取り戻しつつあったが、ケルヴランの翻訳を再開する気にはなれなかった。東京で紛失したファイルにはすでに30ページ以上の翻訳文が入っていた。それを最初からもう一度翻訳するというのは無理な話だった。
一方会社での仕事もかなりハードなもので、忙しいときにはその日のうちに帰宅することもできないくらいだった。現実生活に流されるまま、多忙な日々を過ごしていたわけである。

やがて、ほんのわずかなきっかけが訪れることになる。それはある日自宅の書棚を整理していたところ、翻訳ファイルの原稿が出てきたことから始まった。
その原稿はまだ父親の会社を手伝っていた頃のものだった。ルーズリーフなどではなくチラシの裏側に書き写した下訳の原稿で、苦しい状況の中でもたゆまず続けてきた証ともいえるものだった。
私はその色褪せた原稿を見つめて、もう一度、できる範囲でまとめ直してみようという気になった。その古ぼけた原稿が出てこなかったら、あるいはケルヴランの翻訳を再開することはなかったかもしれない。そして再び私はケルヴランの著作に向きあうことになった。

それから数か月たった頃、冬の寒い夜に仕事を終えた私は車で自宅に向かっていた。黄色の点滅信号を右折しようとして交差点に入ったところ、猛スピードでその方向から暴走車が突っ込んできたのである。
その暴走車は運転席の後ろあたりを直撃し、私は潰れていく車の中で声にならない叫びを上げた。
ふと気がつくと、割れたフロントガラスの向こうに星がまたたいていた。意識は朦朧としていたが頭から冷たいものが流れているのがわかった。しかし、体はまったく言うことをきかなかった。
あとで聞いた話だが、気を失った私の車のまわりで暴走族たちは私をどう始末するかを相談していたらしい。しかし体の動かない私にはなすすべもなかった。

そこへ意外な人物が現れた。それは中学時代の同級生のT君である。彼は事故現場を通りかかって、負傷者が私だと気づいて救急車の手配をしてくれたのだ。ふつう事故現場を通りかかっても人は見知らぬふりをして通り過ぎるものである。思えば不思議なことだが、中学を卒業して以来彼に会ったのはこれが最初で最後である。
こうして病院に搬送されたわけだが、現場にはブレーキ痕が50メートル以上残っていたという。そうすると時速100キロ以上のスピードで激突したらしい。

応急処置を受けたあと私は昏睡し、そのまま入院生活に入ることになった。現在はそのときの事故の後遺症なども残っていないが、入院当初はまともに歩くことさえままならなかった。
しかしベッドの上で一日中テレビを観ているわけにもいかない。私は机の上にあるファイルと辞書をもってくるように家族に頼んだ。フリタージュ活動において人の手を借りたのは、これが最初で最後である。
病室で翻訳を再開した私がもの珍しかったのか、同室の患者さんが「夢があるんだろうね。」と言った。
しかし、もはや夢などそこにはなかった。あるのはつねに厳しい現実だけである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »