フリタージュ活動の原点(5)
地元の教材会社に就職して精神的な落ち着きも取り戻しつつあったが、ケルヴランの翻訳を再開する気にはなれなかった。東京で紛失したファイルにはすでに30ページ以上の翻訳文が入っていた。それを最初からもう一度翻訳するというのは無理な話だった。
一方会社での仕事もかなりハードなもので、忙しいときにはその日のうちに帰宅することもできないくらいだった。現実生活に流されるまま、多忙な日々を過ごしていたわけである。
やがて、ほんのわずかなきっかけが訪れることになる。それはある日自宅の書棚を整理していたところ、翻訳ファイルの原稿が出てきたことから始まった。
その原稿はまだ父親の会社を手伝っていた頃のものだった。ルーズリーフなどではなくチラシの裏側に書き写した下訳の原稿で、苦しい状況の中でもたゆまず続けてきた証ともいえるものだった。
私はその色褪せた原稿を見つめて、もう一度、できる範囲でまとめ直してみようという気になった。その古ぼけた原稿が出てこなかったら、あるいはケルヴランの翻訳を再開することはなかったかもしれない。そして再び私はケルヴランの著作に向きあうことになった。
それから数か月たった頃、冬の寒い夜に仕事を終えた私は車で自宅に向かっていた。黄色の点滅信号を右折しようとして交差点に入ったところ、猛スピードでその方向から暴走車が突っ込んできたのである。
その暴走車は運転席の後ろあたりを直撃し、私は潰れていく車の中で声にならない叫びを上げた。
ふと気がつくと、割れたフロントガラスの向こうに星がまたたいていた。意識は朦朧としていたが頭から冷たいものが流れているのがわかった。しかし、体はまったく言うことをきかなかった。
あとで聞いた話だが、気を失った私の車のまわりで暴走族たちは私をどう始末するかを相談していたらしい。しかし体の動かない私にはなすすべもなかった。
そこへ意外な人物が現れた。それは中学時代の同級生のT君である。彼は事故現場を通りかかって、負傷者が私だと気づいて救急車の手配をしてくれたのだ。ふつう事故現場を通りかかっても人は見知らぬふりをして通り過ぎるものである。思えば不思議なことだが、中学を卒業して以来彼に会ったのはこれが最初で最後である。
こうして病院に搬送されたわけだが、現場にはブレーキ痕が50メートル以上残っていたという。そうすると時速100キロ以上のスピードで激突したらしい。
応急処置を受けたあと私は昏睡し、そのまま入院生活に入ることになった。現在はそのときの事故の後遺症なども残っていないが、入院当初はまともに歩くことさえままならなかった。
しかしベッドの上で一日中テレビを観ているわけにもいかない。私は机の上にあるファイルと辞書をもってくるように家族に頼んだ。フリタージュ活動において人の手を借りたのは、これが最初で最後である。
病室で翻訳を再開した私がもの珍しかったのか、同室の患者さんが「夢があるんだろうね。」と言った。
しかし、もはや夢などそこにはなかった。あるのはつねに厳しい現実だけである。
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