許されざる自由
ケルヴランが元素転換説を公表してすでに半世紀が経つわけだが、日本ではいまだに桜沢如一や千島学説との関連を取り上げる人々がいる。そこで改めて私の見解を示しておくことにしたい。
桜沢如一はマクロビオティックを普及させた人物だが、『無双原理・易』の中でケルヴランとの出会いを次のように語っている。ケルヴランは長年の研究の末、生物学的元素転換という事実を発見したが、それはあまりに革命的な概念だったため死後に公表することにして暗く寂しい晩年を送っていた。ところが桜沢の講演を聴いた彼は感銘を受け、その学説を公表する決意を固めた、というストーリーである。
そもそもケルヴランと桜沢はいつ頃出会ったのだろうか。第一作『生体による元素転換』がリリースされたのは1962年10月で、その半年前に桜沢は翻訳出版の許可を得たという。すると二人が講演会で出会ったのは1962年の4月ということになる。ところがケルヴラン側の資料によると最初の出会いはもう少し遡ることになる。
F・リビエールの著作『健康とマクロビオティック』に寄稿されているケルヴランの序文には以下のような記述がある。
"Georges Ohsawa, qui sejournait alors en Europe pour plusieurs mois et qui savait tres bien le Francais, en eut connaissance et vint me trouver a mon bureau debut 1961."
大意を示すと、桜沢は数か月間ヨーロッパに滞在しているときに多くのフランス人と知り合い、1961年初頭にケルヴランのオフィスを訪れたという。つまり二人が出会ったのは講演会ではなく、それ以前に桜沢がケルヴランの元を訪ねたというのである。
1961年初頭というと、すでにケルヴランは最初の論文を『レヴュー・ゼネラル・ド・シアンセ』に公表しており、1960年12月には『S&A』に「生命は錬金術師である」という記事が掲載されている。また1961年1月にはセーヌ川衛生評議会で一酸化炭素中毒に関する報告も行なわれている。要するに、桜沢が『無双原理・易』に記したようなケルヴランが死後に元素転換説を公表するつもりだったという話は、とんでもない作り話なのである。
また桜沢は千島学説で知られる千島喜久男をケルヴランの引き合わせたと伝えられ、元素転換説と千島学説が関連していると捉えている人もいるようである。ちなみにケルヴランは桜沢からの情報は全面的に受け入れていた。たとえば『自然の中の元素転換』には近畿大学の小田切教授の研究についても言及されているが、これもおそらく桜沢からの情報と見て間違いない。
ところがケルヴランの9冊の著作や20部以上の論文のどこにも千島博士や千島学説に関する記述はまったく存在しない。つまりケルヴランの一次資料において千島喜久男は存在しない人物であり、千島学説とフリタージュに関連性は認められないということになる。結論として、ケルヴランや元素転換説にまつわる不可解な情報や妄説はすべて桜沢を始めとする日本人が作り出したものだといえる。
桜沢如一を個人崇拝する人々や千島学説を信奉する人々にも宗教の自由は認めるべきだろう。しかし許されない自由というものも存在する。それは事実を歪曲する自由である。フリタージュの領域に真剣に足を踏み入れようとする人はこのことを肝に銘じておいて頂きたい。
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